2024/11/15

SFについて

SFを言い訳に使うな、というかSFとは何かをわかっているのか?
少子化対策として、適齢期の女性に子供を産むように強制する、そのために「あくまでSFだけど」と前置きをして「30歳を過ぎたら子宮摘出」なんてことを言った元ベストセラー作家がいた。
とんでもない発言なので、当然謝罪・撤回に追い込まれたが、儂は別の点にも腹が立った。

これはまったくSFではない。
サイエンス・フィクション(空想科学小説)でもなければ、スペキュレーティブ・フィクション(思弁小説)でもなく、「すこし・ふしぎ」でもない。
この元作家には、SFマインドというかSF魂というか、SFについての理解がまったくないのだろう。

「適齢期の女性に子供を産むように強制する」なんていうのはサイエンスでもスペキュレーティブでもなく、邪悪なポリティカルな視点である。
「子育て罰」なんていう言葉が生まれてしまう社会で、誰が子供を産み育てたいと思うだろうか。
なぜ子供を持つことを選択しない若者、そもそも結婚しない若者が増えたのか、ということを考え、社会を変えていくことこそが、まっとうなポリティクスだと思うのだが。

さて、少子化対策を「本当に」SFにするなら、どうするだろうか。
じつは、すでに幾多のSFに書かれている。

労働力不足が問題なら、ロボット(アシモフ『我はロボット』)や動物(小松左京「期待される人間象」)、死者(伊藤計劃+円城塔『屍者の帝国』)などを活用する。
高齢者や身体障碍者、戦傷者をサイボーグ化したり、パワードスーツを使ったり、脳をリモート接続したりして、労働力とするというSFも数多くある。

子供を増やしたいなら、社会制度や環境は整っているという前提ではあるが、男性も妊娠できるようにするとか、老人を若返りさせるとか、体外環境(工場?)で胎児を育てるようにするとか、そういうSFもあるだろう。

男性中心社会が問題なら、女性だけで政治経済を維持し、男性を不要とすることも考えられる。
生物学的には、もともとオスはメスの劣化版だ。
オスに乳首があるのは退化した名残だからだし、オスのY染色体はX染色体が欠けてできたものだ(Y染色体は数万年後に消滅すると言われている)。
X染色体を含むゲノムと卵細胞さえあれば、Y染色体なしで完全なヒト個体が作れるので、女性だけで妊娠・出産することは、原理的には可能だ。

男性のいない、女性だけの社会。
こういう設定のほうがSF的だよね。

遠い未来、男性は知能を基準に分化して、脳以外が退化した「脳人」か、性器以外が退化した「アダムの裔(すえ)」になる、というSFもある。
脳人は有機コンピュータとして、アダムの裔は快楽・生殖用途の道具として、女性中心社会に奉仕するのだ(小松左京「アダムの裔」)。

どうもSF的に考えると、男性は分が悪い。
というか、男性優位社会というものが非SF的、守旧的価値観に基づくもので、男性の既得権益を維持しようとすると少子化が進んでしまうのかもしれない。

こういうことを書くと、貴様はそれでも男か、男の意地や誇りはないのか、とか言い出す輩がいそうだね。
でも儂は、男性優位社会で男性として生まれたという既得権だけで威張るような輩は、小学生メンタルのガキだと思うのだよ。
成熟した男性としては、いかなる状況についても、冷静に思慮できるようにしたいものだ。
そのほうがカッコイイではないか。

なお、そもそも少子化は問題なのか?対策しなければならないものなのか?という観点もSFになる。

前世紀末には、人口爆発とそれに伴う食糧危機と環境破壊が大問題となっていたのだから、人口が増えないことは、むしろ良いことではないのか?
そういえば、儂が大学で農学を学んだのも、映画『ソイレント・グリーン』(原作:ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』)みたいな世界に恐怖を感じたからだった。

少子化により経済的「成長」が見込めないのであれば、「成長」ではなく「成熟」した落ち着いた社会を目指せないものだろうか(これはSFではない)。

将来、不老不死が実現すれば……不死は無理でも健康寿命が200年とか300年とかになれば、人口は増える一方となるだろう。
すると、子供を作ることが犯罪となったり、「赤ん坊狩り」が行われるようになるかもしれない(木城ゆきと『銃夢 Last Order』)。
まさに「子育て罰」そのもののディストピアだ。
ここに至ると、少子化はまったく問題ではなくなってしまう。

さて、SF思考(SFプロトタイピング)がイノベーション創出や課題解決に役立つのではないかといわれて久しい。
こういう「そもそもどうなの?」という視点の逆転や、ちゃぶ台返し、そしてセンス・オブ・ワンダーこそ、SFの醍醐味である。
センス・オブ・ワンダーによってもたらされる「そういうことだったのか」という感覚、そして「そんなことがあり得るだろうか」「やっぱりそうなっちゃうか」「そうなっちゃった社会はどうなるか」といった思索の重要性に、気がつく人は気づいているのだ。

ちなみに、センス・オブ・ワンダーはSFだけから感じるものではない。
身近な自然現象に触れたときも、人はセンス・オブ・ワンダーを感じるものだ(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』)。
というわけで、SFとは無関係な、庭の小さな自然(変形菌の一種)の写真を載せておく。

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はて、果たしてこの写真はSFとは無関係なのだろうか?

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2024/11/07

クラウゼヴィッツの『戦争論』を読んだ

130年の観測史上最も遅い富士山初冠雪が発表されたが、沼津市からは、雲に阻まれて見えなかった。

その富士山が見えるはずの方角で、モズが高鳴きしていた。

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さて、昨日クラウゼヴィッツの『戦争論』を読了した。

もちろん、難解で(かつ退屈で)挫折する人が多いという全訳を読了したわけではない。
要所要所を抜き出して翻訳したという『縮訳版 戦争論』である(威張るところではない)。

原著はナポレオン戦争後のプロイセンの軍人が書いた本であるから、現代の戦争には適用できないことも多いなぁ、と思った。
海戦についてはまったく、ゲリラ戦については一言二言しか触れられていないし。

その一方、ロシアのウクライナ侵攻については当てはまるように思われるところも多かった。
反対に、イスラエルのガザ攻撃は、クラウゼヴィッツの想定する戦争ではないと感じた。

縮訳版とは言え、410ページあるのでそれなりの覚悟を持って読む必要がある。
1日に1〜2時間ずつ読み進めて、1週間かかった。

そんなに時間が取れない、根性もない、という人は、巻末の解説と、その前の第8篇「作戦計画」を読むだけでも、クラウゼヴィッツの言わんとしていることが読み取れるかもしれない。
そして、なぜ現代、19世紀の著作を読む意義があるのか、という疑問の答えも得られるだろう。

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2024/08/28

『一億年のテレスコープ』を読んだ

台風10号が接近……というか九州の南でノロノロしているせいで、散歩もできない。
もともと20年使ったシステムバスの交換工事のため、今週はカンヅメなのだが。
ということで、本を読む日々。

春暮康一著『一億年のテレスコープ』を読んだ(以下敬称略)。

良質の(センス・オブ・ワンダーを味わえる)ハードSFは貴重である。
しかも生物学的考察がしっかりしている国産の(日本語ネイティブの)ハードSFは希少である。

春暮康一の著作は、『オーラリメーカー』『法治の獣』を読んでいて、読みやすく頭に入りやすい文体には好感をもっている。

ただし本作は、ちょっと凝った構成になっていて、主人公とともに遠くへと旅を続ける本筋と、「遠未来」「遠過去」のエピソードが交錯する。
それらのエピソードの関係に、本筋を読んでいるうちに気づく仕掛けになっている。

儂は Kindle 版を買ったのだが、書籍版のほうが読み返しやすいので良いかもしれない。
読みかけのところに栞か指を挟んでおき、ページをぱらぱらめくって前の方のエピソードを探すのは、物理媒体である本ならではの醍醐味、といえる。

以下、ネタバレを含むので、予備知識や先入観なしに本作を読みたい方は、ご注意いただきたい。


本作(の本筋)は主人公の「現在」の日常からスタートして、 SETI(地球外知性探査)、ファーストコンタクト、宇宙の終焉(?)までを描く。

ざっとこのように書くと、劉慈欣の『三体』『黒暗森林』『死神永生』の三部作を思い浮かべるかもしれないが、まったく違う。
「三体」三部作を読んでいて「あー、なんでそうなっちゃうかなぁ」と絶望的な気分になることが度々あるのに対し(読者を絶望的な気分にさせながら面白く読み進めさせてしまうというので傑作なのだが)、本作にはそのような心配はない。
「宇宙を股にかけた侵略など割に合わないし、誰もわざわざそんなことはしない」という世界(宇宙)だからだ。

そこで、実にさまざまな異星人(地球外知的生命体)が登場し、交流する。

「現在」からスタートして(比喩的な意味で)宇宙の果てまで至る SF といえば、ポール・アンダースンの『タウ・ゼロ』とかアーサー・C・クラーク&フレデリック・ポールの『最終定理』など名作がいろいろある。
しかし『タウ・ゼロ』には異星人が出てこないし(示唆されるが)、『最終定理』は宇宙を股にかけた侵略の話である。

なんていう具合にあれこれ比較してみると楽しいな。

「現在」の日本人の主人公が宇宙の果てまで旅をすることができるのは、脳をスキャンしてネットワークにアップロードする技術が開発された(される)ことによる。
情報化された数百人の人格を宇宙船のコンピュータに搭載して、宇宙を旅するのである。

この設定は、グレッグ・イーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』、アマルガム(融合世界)シリーズで読んだ。
しかし、イーガンの作品中のデジタル化された人格が、複製可能(バックアップ可能)であるのに対し、本作のデジタル人格は複製不能であり、ここがちょっと目新しいところだろう。

脳機能の中に量子的振る舞いをする部分があり、これがいわば複製不能な「魂」に当たる、というわけだ。
義体(ロボットボディ)で活動するときも、その「魂」を収めた量子ハードウェアを搭載する必要があり、その量子ハードウェアが失われることがすなわち「死」となる。

デジタル化した結果、不老であっても不死ではないのである。

さて、異星人(異星の生物)については、『法治の獣』に収められた諸作に登場する生物ほどの特異感……「え、こいつどんな姿をしているの? どうやって生きてるの? 個体間のコミュニケーションは? 生態的地位はどうなってるの?」という戸惑い……は、ない。
オオカミっぽかったり、タコっぽかったり、バッタぽかったり、カラスっぽかったり、ハチっぽかったり……。

しかし、これは作者が「わざと」そうしているのだろう。
異星人の姿や生態を想像しやすくして、物語世界に読者が没入しやすくしているものと拝察する。

『スター・ウォーズ』に「ソラリスの海」みたいな知的生命体が出てこないのと同様と考えればいいかな?

なお本作には、読者にハードSFの知識があることを前提にしていると思われる記述があちこちに見られる。
まぁ、ハードSFとはそういうものだが。

ここでは、覚書を兼ねて、二つの「法則」を記しておく。


クラークの第三法則

(第一法則)
著名な年配の科学者が、かくかくしかじかのことは可能であるといったならば、ほとんどの場合それは正しい。だが、これこれのことは不可能であるといった場合は、誤りであることが非常に多い。

(第二法則)
可能性の限界を知る唯一の方法は、可能の域を超え、不可能の領域まで入ってみることだ。

(第三法則)
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。


ハンロンの剃刀

無能で十分に説明できることに悪意を見出してはならない。

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2024/07/30

『コロナ漂流録』を読んだ

海堂尊著『コロナ漂流録 2022銃弾の行方』を読んだ。

コロナ黙示録』『コロナ狂騒録』に続くコロナ三部作の完結編である。

完結編といっても、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックは終息せず(2024年7月現在、第11波が到達している)、否応なく「ウィズコロナ」状態になっているので、本当に完結編となるかどうかは、著者次第だが。

本作では、表題の通り2022年7月の首相暗殺から始まり、2023年1月の諦めに似た主人公の独白で終わる。

機能性表示食品ならぬ「効果性表示食品」、統一教会ならぬ「奉一教会」、大阪万博ならぬ「浪速万博」など、現実の諸問題を名前を言い換えて記録している。

機能性表示食品については、その後、現実世界において小林製薬のサプリによる健康被害が発生して問題となり、注目を集める事態となった。
機能性表示食品のようないい加減な規制緩和の体質的な問題点を、小説のほうが先に示していたわけだ。

前作『コロナ狂騒録』で「バカ五ヵ条」を開陳した厚労省のはみ出し技官の白鳥は、本作では「創薬詐欺師を見抜く鉄則五ヵ条」を披露する(文庫版246ページ)。

第1条:追従者がいない技術をフカせ
「世界で自分たちだけが特殊技術で成功した」というのは、じつは世界が見放した「成功の可能性のほとんどない技術」だったりする。

第2条:事後解析で有効性を主張せよ
データの改竄や都合の良いデータだけを取り上げて有効性を主張する。

第3条:結果公表を先延ばしせよ
臨床試験結果の公表を遅らせ、補助金を受け取ってから開発を中止にする。

第4条:メディア花火を打ち上げろ
政治家やメディアとつるんで、補助金をゲットし、株価を上げて資金を集める。

第5条:海外治験は欧米以外でやれ
もともと本気で開発する気がないので、委託先の国を公表せずに誤魔化す。

ということで、「創薬詐欺師を見抜く鉄則五ヵ条」と言いながら、「いかにして創薬詐欺師になるか」みたいな鉄則になってしまっていたりする。

こういう創作部分は、いつものバチスタ・シリーズ(桜宮サーガ)のテイストで安心感すら覚えるのだが、この登場人物達なら、やはりポリティカル・フィクションではなくミステリが読みたい気がする。

ちなみに、文庫版の解説は、統一教会を追い続けているジャーナリストの万田ナイト、じゃなくて鈴木エイトが書いている。
万田ナイトは「奉一教会」を追い続けているジャーナリストだった(文庫版157ページ)。

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2024/07/27

『コロナ狂騒録』を読んだ

海堂尊著『コロナ狂騒録 2021五輪の饗宴』を読んだ。
コロナ黙示録』の続編である。

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)第2波以降、ワクチン接種や延期された東京オリンピック前夜のゴタゴタが描かれる。

ドタバタ・ディザスター・コメディとして読むと、そんなバカな、そんなに無能な政治家や官僚がいるものか、と思ってしまうレベルだが、これが実際に起った「現実」をなぞっているのだから恐ろしい。

バチスタ・シリーズ(桜宮サーガ)の主要登場人物の一人である、はみ出し厚生技官の白鳥が、パフェおじさんこと酸ヶ湯総理大臣に「バカを選別するための『バカ五ヵ条』」を開陳するシーンがある(文庫版335ページ)。

「バカは思い上がって周囲にバカをまき散らすので、コロナよりタチが悪いんですよね。『バカ五ヵ条』は各項一点、四点以上でバカ確定です。その一、自分を利口と思うバカ、その二、議論で揚げ足を取るバカ、その三、バカと言われると逆ギレするバカ、その四、知恵者の話を聞かないバカ、その五、漢字が読めず教養のないバカ。さて、ここで質問です。スカちゃんは何点だったでしょう」

まったくもって、当時も現在も、行政もメディアも、金に汚くて幼稚なバカばっかりですなぁ。

本書は「ポビドンヨード」やら「PCR検査抑制」やら「マンボウ」やら「GoToキャンペーン」やら、とんでもない愚策の数々を小説という形で残した記録の書とも言えるかもしれない。
なにせ現政権は、都合の悪い公文書は改竄したり廃棄したりしちゃうので、小説(フィクション)のほうがファクトに近くなってしまうのだ。

それにしても、いまだに自公連立政権が倒れず、東京都では小池百合子が再選され、大阪では維新の会が支持されている(のかな?)のだから、有権者のほうも思考力のないバカなのかもしれないなぁ。

ところで、思考力を奪われるような猛暑が続く昨今、窓を開けていると思考力はおろか家族の会話すら奪うくらいの勢いでセミが鳴いている。

今日、庭のカツラの木に付いているクマゼミを数えてみたら、8匹いた。
次の写真では、クマゼミを黄色い線で囲って示しているが、1匹は幹の裏側にいたので点線にしてある。

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その裏側の1匹も写してやろうと思って近づいたら、6匹のクマゼミが一斉に飛び立った(2匹は残った)。

グゲゲ、バサバサッ、バチバチ、ガツン!

叫びながら飛び回り、庭木の枝葉や家の壁や窓ガラスに当たる。
4匹は近隣へ飛び去ったが、2匹は戻ってきてカツラの枝先のほうにとまったようだ。
儂が居間に戻ったら、また性懲りもなく(というかセミにとっては当然の生業として)大きな声で鳴くのだろう。

居間の二重窓と冷房は、暑さ対策だけでなく、セミの暴虐への対策でもあるのだ。

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2024/07/22

『コロナ黙示録』を読んだ

海堂尊著『コロナ黙示録 2020災厄の襲来』を読んだ。

まず、本作はバチスタシリーズの物語世界の設定(登場人物など)が使われているが、ミステリではない。
トリックもなければ、謎解きもない。

どっちかというと、コミカルな味付けをしたポリティカル・フィクションである。
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)襲来時の政府と現場でのチグハグな対応が描かれる。

虚実取り混ぜ、というかフィクションだから虚構なのだけれど、登場人物の名前を入れ替えれば、ほぼ事実通りに推移する部分が多いように思った。
人名じゃないけど、ダイアモンド・プリンセス号ならぬダイアモンド・ダスト号とか、アベノマスクならぬアボノマスクとか。

当時のゴタゴタ、後手後手、頓珍漢な政府の対応を思い出す。
そうだよねぇ、酷かったよねぇ、そしてそれは今も(首相や閣僚が変わっても)続いているよねぇ。

当時の自分のブログを読み返してみたら、外出自粛などの要請に対応して在宅リモートワーク環境を構築しようと四苦八苦する様子を書き記していた。

感染防止のために出勤回数を減らして在宅で仕事をしていて、外出するのは不要不急でない(つまり必要最低限の)買い物と散歩だけだった。

現在も、熱中症警戒アラートが発動されているため、外出するのは不要不急でない買い物と散歩くらいだ。

いや、散歩以外に、山には登っているなぁ。
しかし、第11波が酷いことになって救急医療が切迫してきたら、山歩きも控えたほうがよい、なんてことになったりするだろうか。

あれから4年半が経つが、「コロナ禍」はまだ終わっていないのだ。

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2023/11/21

生物学と物理学の埋まらない溝

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唐突に2020年4月(COVID-19パンデミックの始まりのころ)の写真を載せた。
こんを連れて沼津千本浜公園に言ったときのものである。
ここでの主題は、こんではない。

千本浜公園には、その名の通りたくさんの松が植えられて、防風林になっている。
そのアカマツの樹皮に注目する。

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樹皮の模様は、幹が太くなるときに裂けた表皮がコルク化したものである。
裂け目をよく見ると、縦に長い六角形や方形のように見える。
方向性と周期性があるので、何らかの物理的法則があるのだろうと思われる。

このような樹皮の模様は、アカマツだけでなくクヌギやコナラなどでも見られる。
サクラやシラカバの樹皮は、横方向(水平方向)に裂けている。
一方、プラタナスやサルスベリのように、古い樹皮が剥がれ落ちて新しいすべすべの樹皮ができ続けるので、裂け目ができないものもある。

植物は、単なる物理的最適解を採用しているわけではないのだ。
生物の形態や生態には、必ず進化、つまり現在に至るまでの「歴史」が関係している。

3年半前の写真を持ち出したのは、『キリンの斑論争と寺田寅彦(岩波科学ライブラリー)』を読んで、その中に掲載されていたメロンの縞模様の写真を見たとき、樹皮にも似たような模様があったなぁと思い出したからだ。

以下、Amazon の『キリンの斑論争と寺田寅彦 』のリード文を引用する。

キリンの斑模様は何かの割れ目と考えることができるのではないか.そんな論説を物理学者が雑誌『科学』に寄稿したことに生物学者が危険な発想と反論したことから始まった有名な論争の顛末は? 現在の科学から論争の意味と意義を評価する.主導的な役割を果たした寺田寅彦の科学者としての視点の斬新さ・先駆性が浮かび上がる.

なぜか、生物学者と物理学者は仲が悪い。
生物学者は「物理学者は生物学的現象を単純に考えすぎる、生物はもっと複雑で能動的なものだ」と言い、物理学者は「生物学者は複雑な現象を複雑なまま扱おうとして失敗し、生命の神秘に逃げようとする」と言う。

そういえば儂も若いころ、物理学出身の人に「生物学は複雑すぎて嫌。だいたい、生物は種類が多すぎるし、相互の関係が入り込みすぎてる」と言われたこともある。
生物学徒としては、多様性と関係性が面白いんだけどね。

また、塾の夏期講習で教えているとき、同僚の物理学修士に「僕はビッグバンから1秒後より後のできごとには興味ないんですよ」と言われた。
いやぁ、生物はその、興味ないところに全歴史があるのですが。

まぁこの人は、「理科で摩擦力とか表面張力とか遠心力とか抗力とか、いろいろな力を持ち出すのはいかがなものか。自然界の力は強い力、弱い力、電磁力、重力の四つしかないのに」と面白いことを言っていたが。
まぁどんな力も還元すれば四つの力のどれかだけど、強い力と弱い力は原子核レベルでしか働かない核力だから、普段(マクロなスケールで)見かける力は電磁力か重力のどちらかになってしまう。
突き詰めれば電磁力になってしまうとはいえ、やっぱり摩擦力と表面張力とファンデルワールス力は区別したいよねぇ。
ハエとかナメクジとかヤモリが垂直な壁を歩くときのことを考えるときなんかに……。

ということで、若いころには生物学と物理学の間には、埋めがたいギャップがあるのかもなぁと思ったものである、

しかし現在(というか1980年代以降?)単純な物理法則と生物の生理生態とのギャップを、複雑系の科学、カオス学が埋められるのではないかと期待されている。
キリンやヒョウの毛皮や、サバの背中のような模様については、チューリング理論により説明できそうである。
ちなみにチューリング理論のチューリングは、チューリングマシンやチューリングテストを考案し、エニグマの暗号を解読した、あのチューリングである(ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じた映画『イミテーション・ゲーム』は必見である)。

寺田寅彦の随筆を読むと、自然界に見られる縞模様や金平糖の角の配置、市電の混み方と運行遅延など、カオス学を先取りしたような論考が見られる(青空文庫で読むことができる)。
寺田寅彦が複雑系やコンピュータシミュレーションを知っていたら、面白い研究をしただろうに、と思う。

以前、動物の縄張りの分布の解析などに使われるボロノイ分割と、溶岩が固まってできた柱状節理や木々の枝の張り方が似ているなぁと思って「ボロノイ分割、柱状節理、林冠のすき間」という記事を書いたことがある。
儂のような科学のシロウトとしては、寺田寅彦のような鋭い観察・考察はできないまでも、身の回りの不思議なことに気づくだけの感性を持ち続けたいと思うのだ。

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2023/08/04

歴史の改変は可能か?

佐々木譲の『図書館の子』を読んだ。

道警シリーズや『地層捜査』など、佐々木譲の小説には好きな作品が多い。しかし、『図書館の子』収録の六編については、まぁ、再読することもなさそうだし、関連作品も読まなくてもよいかなぁ、と思った。

昭和初期の情景を描く文体は読みやすく、情景も浮かんでくるので、小説としての完成度は高い。どうも儂は「歴史改変」ならば普通の小説ではなくSFであることを求めてしまうので、そこがマッチしていないだけなのだろう。

物語の必要上、時系列の出来事(タイムライン)を変更するなら、変更された結果の意外性(センス・オブ・ワンダー)や、理論的背景の説明が欲しい。もちろん架空で構わないので、タイムトラベルの理論や、タイムパラドックスについての言及がないと、物足りなく感じてしまうのだ。

ということで、タイムパラドックスについて。

タイムパラドックスの典型は「親殺しのパラドックス」である。子供が過去に戻って幼い頃の親を殺すと、子供自身が生まれないはずなので、過去に戻ることも親を殺すこともできないはずだ、というパラドックスである。

例えば、映画『ターミネーター』では、近未来、人類を駆逐しようとするスカイネット(AI)が、レジスタンスのリーダーであるジョン・コナーに手を焼いている。そこでスカイネットは、ジョン・コナーを排除するため、ジョンが生まれる前の時代(現代)にターミネーター(殺人ロボット)T-800を送り、母親(サラ・コナー)を殺害しようとする。

ジョンを産む前にサラが死ねば、未来のジョンは存在しなくなり、スカイネットはレジスタンスに手を焼くこともなくなる。子供の存在を消すために親を殺すという「親殺しのパラドックス」の別バージョンである。

T-800が過去に送られたことを知ったジョンは、部下の戦士(カイル)を過去に送る。カイルはサラと協力してターミネーターを破壊する。カイルは死ぬが、その前にサラはカイルの子、後のジョンを宿している。

Terminator_timeline

……というのが映画『ターミネーター』のあらすじで、結局、スカイネットの企みは回避され、ジョンが人類の存続をかけてAIと闘うという未来は変わらない。

だがちょっと待てよ……。そもそもスカイネットがターミネーターを過去に送らなければ、サラとカイルが出会うこともなく、ジョンが生まれることもないわけだ。つまり、スカイネット自身がジョンの登場のきっかけを作ったということにならないか? そして未来のジョンは、部下のカイルが自分の父親になること、そして母と出会ったら死ぬことを知りながら過去へ送り出したのか?

……というわけで、いろいろと考えさせられるほど、時間を扱ったSFは面白くなる。

続編の『ターミネーター2』では、少年期のジョンを抹殺すべくスカイネットは新型のターミネーター(T-1000)を過去へ送る。未来のジョンは旧型のターミネーター(T-800)を人類側の味方として過去へ送って対抗する。

この場合も結局、T-800がT-1000を倒し、元のタイムライン(時間線)が維持される。つまり「歴史の改変は不可能」ということなのだろうか?

じつは『ターミネーター2』ではまた、新たな「親殺しのパラドックス」の変形版が描かれる。スカイネットのCPUは、サラを殺しに来たT-800のCPUを元に設計される。つまりスカイネットの生みの親は、未来の(ターミネーターを送り込んだ)スカイネット自身だったというわけだ。そこで少年のジョンはT-800のCPUを破壊し、スカイネットが開発されないようにする。

サラを殺しに来たT-800のCPUは溶鉱炉に投げ込まれる。そしてジョンを助けに来たT-800は、自身のCPUを破壊するために溶鉱炉に沈んでいく。なんでロボットが死ぬシーンが悲しくなるのかわからないが、ここは感動的な場面だ。

それはともかく、この時点(過去)でT-800のCPUが破壊されれば、スカイネットは生まれないはずだ。スカイネット開発者のダイソン博士も死んでしまったし。したがってスカイネットによる人類殲滅戦という未来は回避され、タイムラインは変更されたことになる。

えーと、そうなると、スカイネットが人類を皆殺しにかかるという「未来の歴史」は起こらないので、スカイネットがターミネーターを送ってきてサラとジョンを殺そうとしたという「歴史的事実」はサラとジョン(およびその関係者)の記憶の中だけのものになってしまうのか?

タイムラインの変更による歴史の改変や、そもそもタイムトラベル(タイムスリップ、タイムリープ)が可能なのかという話は、さらにいろいろ考えるネタになりそうだ。

それよりも昨今気になるのは、タイムトラベルやパラドックスとは関係なく、歴史の捏造や改変をやりたがる連中のことだ。地層や化石、進化、放射性物質による年代測定のように物理・化学・生物・地学的なエビデンスのある「歴史」と違い、人間の歴史は記録にしろ記憶にしろ不完全な部分や都合よく書き換えられた部分がある(当時の権力者にとっての都合だ)。記録はまた、つねに廃棄されたり改竄されたりしてきた。「歴史的真実」を見極めるのは容易ではない。

SF的な「歴史の改変」は面白いネタだが、実生活での「歴史の改変」は警戒すべき事柄だと思うのだ。

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2023/07/21

科学者が科学的であるとは限らない

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島崎邦彦著『3.11 大津波の対策を邪魔した男たち』を読んだ。

元日本地震学会会長の島崎さんによれば、東日本大震災の津波被害も原発事故も、けっして「想定外」ではなかったそうだ。想定されていたが「起こらないだろう」ということにされていたのだ。

本書を読みながら考えたことは、「科学者や技術者が常に科学的に思考し判断するとは限らないのだよなぁ」ということだ。科学者や技術者には「立場」があり、その立場……というかはっきり言って「権益」を守るために、判断を誤ったり、解釈を捻じ曲げたりするのだ。

そして科学者や技術者も人間である以上、知識や情報収集力には限界がある。過去の(地震津波などの)事象をすべて知ることもできなければ、未来に起こることを予知することもできない。さらに、その専門性から知りうること・判断できることにも限りがある。

島崎さん自身もあとがきでこう書いている。

この本に登場する人たちは、一人一人はみんな良い人だと思う。しかし結果として、大惨事につながることをしてしまった。それぞれの役割、その時々の立場……いろいろなことがあったのだろう。

私自身、原発のことを、もっと知っていればよかったと思う。

それにしても不気味なのは「原子力ムラ」の力(権力?財力?)、原子力関係者への忖度である。高木仁三郎さんの著作に見られるほど露骨な脅しはなかったようだが、島崎さんの知らないところで裏会議が行われて報告書の重要な数値が変更されたり、警告が無視されたりしていたようだ。

ロシアのウクライナ進行に伴うエネルギー危機に便乗して、またぞろ原発再稼働が取り沙汰されている昨今、「原子力ムラ」の存在はとても不気味だ。

さて、本書のタイトルに「邪魔した男たち」とあるが「邪魔した女たち」はいなかったのだろうか。いなかったとしたら、そのこと自体が、この国の産・学・官の歪みを表しているような気がする。

……なんて具合に大上段に振りかぶって「国」なんて言葉を使ってみたが、こういう曖昧で抽象的な概念を使うのは好きではない。仮想的な概念を廃して個人の視点で考えよう。すると要するに、自分の身分や権益の維持に汲々としている弱っちいオトコたち(平目男?蛙男?)がグズグズしていたために、大災害になってしまったんだよなぁ。……そう思うと、なおさら腹立たしいぞ。

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2023/05/31

『はだしのゲン』を読んだ

はだしのゲン』を最初に読んだのは、1970年代はじめ、中学校の図書室だったと思う。
当時は原爆投下とその直後の悲惨さだけが印象に残ったが、読み直してみると、戦後の話のほうが長い。

そしてある意味で、原爆投下直後よりも非道い。
ゲンの一家や仲間たちの「敵」は、原爆を投下したアメリカ軍、被爆者を実験サンプルとしか見なさないアメリカ政府だけではない。
むしろ、日本人の大人たちに対する憤りのほうが大きいのではないか。

子どもたちを(大人たちが始めた)戦争の道連れにして命を奪い、親兄弟を奪い、住む家を奪い、教育の機会を奪い、肉体的・精神的に傷付け、被爆者を差別する……。

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儂の親の世代は、ゲンと同じように終戦時に小中学生だった。
その親の話を聞くと、やはり大人たちの変わり身の速さに腹が立ったという。

玉音放送の翌日、軍事教練で生徒に体罰を加え続けてきた教官は、中学生からの仕返しを恐れて逃亡する。
英語の教師が急に威張りだす。
鬼畜米英、一億火の玉、と叫んでいた大人たちが「じつは戦争には反対だったのだ」「竹槍で勝てるわけがないと思っていた」と言い始める。

太平洋戦争への道 1931-1941』などでは戦前の状況について、慎重な軍部を国民が煽り、無謀な戦争へと突き進んだ側面もあると書かれている。
いまを「新しい戦前」にしないために、戦争を体験せずに老人となった儂らは、何ができるだろうか。

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