2025/06/03

怒りの葡萄、悲惨なユスラウメ

虫が元気な季節になった。
散歩中、カメラには接写用のマクロレンズを装着するようにした。

路傍のヒメジョオンの花にツバメシジミがとまっていた。
前翅が欠けているのは、鳥にでも襲われたのだろうか。

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家の庭の草木も元気に伸びる。
そこで、こまめに手入れしなくてはならない。

ヒメシャラの落花の散る根元に、実生が顔を出していた。
今後どのように育つのか見たいので、うっかり刈らないように気を付けなくては。

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自宅の庭には、20年近くの間、落葉・落枝や刈った草、生ゴミから作った堆肥などを施している。
ミミズが活発に活動し、良い土ができている。
いざとなったら、芝生を引っ剥がして畑にできるだろう。

先週読み終えた『怒りの葡萄』は、耕作不可能となった土地を追われたオクラホマ州の農民たちの物語である。
高校生のとき、教科書に載っていた『赤い小馬』をきっかけに、スタインベックの短編をいくつか読んだ。
長編『怒りの葡萄』に挑戦したのは高校2年生の夏休みで、市立図書館で借りて読んだ。

ということで、半世紀ぶりの再読である。

ジョード一家の流浪の旅については記憶が曖昧で、結末も「これで終わりだっけ?」とちょっと戸惑った。
いろいろ調べてみると、キリスト教/聖書について理解していると、より深い味わいがあるらしい。
そう言えば主人公トムの妹の名前が「シャロンの薔薇」だし、長兄はノアだし、ともに旅する元説教師はジム・ケイシー(イニシャルが J.C.=イエス・キリスト)だし。

記憶通りで楽しめたのは、第3章の国道を渡るカメのエピソードや、第15章の食堂(ダイナー)のエピソードだ。
文庫版の『怒りの葡萄』は新潮社のほかに早川書房からも出ているが、購入の決め手にしたのが、この第15章なのだ。
書店で第15章だけ立ち読みして、高校生のときに読んだときの印象に近かったのが、新潮社版の翻訳だったのである。

『怒りの葡萄』についてあれこれ書き出すと長くなりそうなので、ここではあと一点だけ。

オクラホマの農民たちが土地を追われる原因となった表土の喪失は、不適切な農法がもたらしたものだ。
もともと表土層が固くて薄く、流亡しやすい(湿ってふっくらとした我が家の土とは大違いである)。
それなのに、作中でも指摘されているように、等高線農法を適用せず、土壌を疲弊させる綿花を栽培したからだ。

大学で農学を学んでいるとき、常に疑問であり、学友とよく議論したのは、「農業は自然破壊か?」ということだった。
土地の栄養を吸収して育った農作物を持ち出すのだから、この点では収奪である。
だから耕作地には、栄養分を戻さなくてはならない。
無施肥の農業はありえないのである。
有機質の肥料を土地に戻すようにすることで、農業は持続可能となる。

また農業というのは、生態学的に依怙贔屓することであって、特定の動植物を優遇し、それ以外の動植物は敵と見做す。
農業ではなく家庭園芸のレベルでも、生態学的依怙贔屓が求められる。
ヒメシャラの実生を刈らないように気を付けて、ドクダミを刈るのはその一例だ。

そこで、コイツはどうしたもんだろう?

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庭のユスラウメの枝先で見つけたゴマダラカミキリである。

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コイツがユスラウメの枝の皮を剥いで食べている。

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ここ数年、ユスラウメの結実が少ないのは樹齢20年超となって弱ったからかと思ったが、コイツのせいかもしれない。

生態学的依怙贔屓を実施するには、コイツをどのように扱えばよいだろうか。

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2025/04/24

『福島第一原発事故の「真実」』を読んだ

先々週、ポーチの軒下とベランダの裏側に、アシナガバチが巣を作った。
儂もカミさんもアシナガバチには刺されたことがあるので、ウチに作られた巣は、必ず除去している。
もっとも、カミさんはアレルギー検査の結果、ハチ毒に対するアレルギーがないそうなので、二度目に刺されたときにアナフェラキシーショックを起こすのは、儂だけかもしれない。
ハチ毒のアレルギー検査、やったほうがいいかなぁ。

そして先週末、今度は庭のルー(ヘンルウダ)の茎に、巣を作っているのを発見した。

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キアシナガバチだと思うが、巣はまだ小さい。

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ウッドデッキと物干しの間なので、洗濯物を干したり取り込んだりするときに、トラブルになるおそれがある。
そこで気の毒ではあったが、殺虫剤を噴霧して、巣を撤去した。

庭の隅っこあたりに作られた巣なら放置するのだが、さすがに儂らの動線と重なるところは遠慮してほしい。
といっても言葉は通じないので、「巣を作らせない効果」を謳っている殺虫剤を、軒下やウッドデッキの下に噴霧しておいた。
化学的なメッセージとして伝わるのだろうか。

さて、先々週から先週にかけて、『福島第一原発事故の「真実」ドキュメント編』と『福島第一原発事故の「真実」検証編』を読んだ。

本書は2021年2月に刊行された単行本『福島第一原発事故の「真実」』の第一部と第二部を、その後に判明した事実を加筆修正して、2冊の文庫版としたものである。
内容的には、NHKスペシャルで放送された『メルトダウン』シリーズの取材に基づく。

過去に講談社現代新書から刊行された『福島第一原発事故 7つの謎』(2025年1月)および『福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」』(2017年9月)と重なる部分も多かったが、何より新たな取材と証言、検証を踏まえて、追加された部分がたくさんある。

「ドキュメント編」で事態の推移をまとめて読み、「検証編」で様々な謎とその原因についてまとめて読み、驚愕したことがいくつかあった。
たとえば……

全電源喪失によって、原子炉の情報が何も得られなくなり、操作も何もできなくなってしまったこと。

1号機・2号機・3号機の原子炉、4号機の使用済み核燃料プールの危機的状況が同時に、あるいは波状に押し寄せるが、現場の対応は同時にはできていなかったこと。
その際、いずれかの問題に注力すると、他の問題は棚上げになってしない、その間にも事態は進行していたということ。

ベントやSR弁の開放、注水など、決死の努力で行なった作業が、ほぼすべて、メルトダウン(炉心熔融)を防ぐ役には立っていなかったらしい、ということ。

結果的に、格納容器が壊れたり配管のパッキンが高熱で融けたりして、原子炉内の高温高圧のガスが抜けたことにより、壊滅的な被害が防げたのだということ。
つまり、「放射性物質を放出しないための方策」がすべて失敗したことが、「福島以外の」東日本を救ったのだということ。

一つだけ、「検証編」のエピローグから、偶然によって救われた例を挙げる(最悪シナリオとは、「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」に示された、半径250kmの範囲……首都圏を含む東日本全域……が避難対象となる予測のこと)。

 最悪シナリオで示された4号機の燃料プールの水がなくなり、高熱の使用済み核燃料がメルトダウンして、大量の放射性物質が放出されなかったのも偶然のなせるわざだった。4号機プールの水が干上がらなかったのは、たまたま隣接する原子炉ウェルの仕切り板に隙間ができて、大量の水が流れ込んだおかげだった。4号機が水素爆発し、原子炉建屋屋上階が壊れたことで、外からの注水が可能となったことも、まさに怪我の功名だった。爆発後、3号機の格納容器ベントによって排出された放射性物質が流れ込み、4号機の原子炉建屋には人が立ち入れない状態だった。コンクリート注入用の特殊車両を遠隔操作し、燃料プールに冷却水を注入できたのも4号機の爆発があったからに他ならない。
 もし、これらの偶然が重なっていなかったら、4号機プールの水位はどんどん低下し、使用済み核燃料がむき出しになる恐れがあった。そうなると最悪シナリオで描かれた恐怖が現実のものとなりかねなかったのである。

ほかにも、注水できなかったために「水ージルコニウム反応」が抑えられて温度と圧力が下がったり、格納容器や配管が壊れたために圧が抜けたり、作業が遅れていたので水があって冷却できたり、というように、偶然に救われすぎなのである。
救われたといっても、東日本壊滅が避けられただけで、今も故郷に帰れない人々は救われていない。

前にも書いたが、コメディSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最終巻、『ほとんど無害』(172ページ)に描かれた銀河文明においてあらゆる装置に付けられているという注意書きを思い出す。

「故障の可能性があるものと、ぜったいに故障しないものとの大きな違いは、ぜったいに故障しないものが故障したときには、そばに近づくことも修理することもたいてい不可能だということです」

ようやく福島第一原発2号機からの2回目のデブリ取り出しに成功したという報道を、今朝の新聞で読んだ。
推定880トンのデブリのうちの二つまみ目である。
2号機はデブリへの異物混入が最も少ないらしいので(1号機と3号機は原子炉の土台のコンクリートごと融けているらしいので)、これが廃炉への道筋をつける役に立つものかどうか、とても心細い。

一方、(東日本大震災以来停止したまま寿命を迎えた)浜岡原発の廃炉作業の様子が公開されたという報道もされている。
廃炉の結果生じる2万トンの低レベル放射性廃棄物の処分方法はまだ未定で、敷地内に仮置きするそうだ。

もちろん、日本中の原発の使用済み核燃料の行き先も決まっていない。
「電気代が高いから」「潜在的核保有という安全保障上の理由から」「せっかくあるのにもったいないから」「地域経済のために」といった理由で原発を再稼働したがる人がいるが、再稼働すれば必ず生じる「使用済み核燃料」すなわち「核のゴミ」についてはどう考えているのだろう?
自宅で引き取っていただけるのだろうか?

「核のゴミ」の放射能が問題ないレベルまで弱まるには、10万年かかるという。
地下に保存するにせよ、地上に保存するにせよ、子孫が誤って「開封」しないように、保管施設には「キケン、開けるな」というメッセージが必要だ。
これについては真面目に研究されているようだが、何しろ10万年先まで運用しなければならないのだ。
10万年後に人類文明が存続しているか不明だし、存続しているにしても言語が通じるとは限らない。
儂ら現生人類が、10万年前にアフリカにいたかヨーロッパ・アジア出てきたばかりの祖先と(身振り手振り抜きで)会話ができるか、考えてみればいい。

古代人類の壁画や彫刻には、ひょっとしたら「モノリスには近寄るな」というメッセージが含まれていたりして。
なんていう冗談はともかく、非言語的に「伝わる」メッセージが必要だ。

とりあえず、アシナガバチやスズメバチの警告色を模して、核関連施設はすべて派手な黄色と黒の縞模様にしておく、というのはどうだろう。
これなら、脳を持つ動物全てに対して、「キケン、近寄るな」というメッセージを発していることになるのではあるまいか。

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2025/04/05

『続・日本軍兵士』を読んだ

桜も見頃になってきたが、まだ満開ではない。

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季節の移ろいとは関係なく、大地は動く。
3月28日、インドプレートとユーラシアプレートの境界の断層が動き、ミャンマーで大きな地震が起きた。

各国からの支援物資が、ミャンマー国軍に横取りされて大地震の被害者へ届かない、という話を聞く。軍隊というものは、本質的に生命軽視の略奪体質なのだろうか、と考えてしまう。

吉田裕著『続・日本軍兵士――帝国陸海軍の現実』(中公新書)を読んで、そう思ったのだ。

前著『日本軍兵士』を読んだとき、戦場での食料や物資のひどい不足、とくに戦病死者の多さに驚愕した。
本書では、その「大量死の歴史的背景」を深堀りしたものである。

本書の第3章「アジア・太平洋戦争末期――飢える前線」では、戦争末期の戦没者の特徴として、1944年以降の戦没者が全体の87.6%を占めることに触れて、次のように述べている。

 もう一つの特質は、序章でも述べたように、全戦没者の六割以上が戦病死者だということである。その原因としては、連合軍の攻撃によって、食料・医薬品などの補給が途絶したこと、国力を無視して戦線を拡大しすぎたこと、作戦第一主義が災いして補給を軽視したこと、そして無理な徴兵・召集の結果、軍隊のなかで体格、体力の劣る「弱兵」や「老兵」が大きな割合を締めていたことなどを指摘することができる。

戦争を止める、降伏するという判断が遅れたことにより、無用に多くの命が失われた。

第4章「人間軽視――日本軍の構造的問題」では、初年兵が任地に到着するまでに三分の一が落伍し戦病死している例や、海軍機の輸送中や訓練中の「非戦闘喪失」は戦闘による喪失の三倍以上にのぼることなどが挙げられている。これは軍用機の降着装置が未舗装の飛行場で損傷したこと、粗製乱造の機体の故障、非熟練パイロットの洋上での遭難によることなどによる。

 地上戦への協力が主任務で、洋上飛行を想定していない陸軍の場合は、航法ミスで「迷子」になる事故がさらに多かったと考えられる。まさに、「航空撃滅戦」ならぬ「航空自滅戦」である。

国を守って死んだ「英霊」の実態は、無謀な計画や粗雑な装備、食料物資の不足による「犬死に」なのだ。

「おわりに」では次のようにまとめられている。

 結局、日本の国力では、臨時軍事費の転用などによって、「正面装備」の充実はある程度実現したものの、軍の機械化・自動車化、兵站の整備、軍事衛生や軍事医療、給養の充実などの課題はすべて先送りとなった。「奥行き」のある軍備は、最後まで実現できなかったのである。このことは兵士にいっそう過重な負担を強いることを意味した。
 同時に、射程をさらに伸ばして考えれば、アジア・太平洋戦争における「大日本帝国」の悲惨な敗北を準備したのは、軍事史的にみれば、日中全面戦争の長期化と戦略的見通しを欠いた無統制な軍拡だった、ということができるだろう。

上記の「奥行き」とは、本書の「はじめに」で引用された夏目漱石の『それから』の次の記述に由来する。

 日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、むりにも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった。〔中略〕牛と競争する蛙と同じことで、もう君、腹が裂けるよ。

現在、中国やロシア・アメリカに対抗できるだけの軍備を調えようとしたら、日本はいまの3倍、いや10倍の軍事費が必要となるのではなかろうか。

「敵基地攻撃能力」などという戦略的理念も正当性も実現性もないものに予算を投じようとしていることが愚かしく思える。
先日の中国のプロパガンダ映像を見ていたら、中長距離弾道ミサイルをトレーラーで運んで、どこからでも発射できると宣伝していた。
中国全土がミサイル基地となり得るとしたら、中国全土を攻撃する気なのだろうか。

なお「あとがき」には次のような記述があった。

 歴史研究者の私が、やってきたことは、この戦史研究の分野に歴史学研究の分野から割って入り、戦闘や戦場の実態を、民衆史、社会史、地域史などの手法で捉え直すこと、そして、そのことによって、戦場や戦闘のリアルで凄惨な現実を明らかにすることだった。その最初の試みが前著『日本軍兵士』である。
 その続編である本書では、アジア・太平洋戦争における大量死の歴史的背景を、明治時代にまで遡って明らかにすることを課題とした。
 しかし、残された史料があまりにも少ないことに最後まで悩まされ続けた。

なぜ史料が少ないかというと、終戦直後に組織的・徹底的な焼却が行われたからだ。

昨日、財務省がその存在すら明らかにしなかった「森友文書」が一部開示された。
しかし、重要な部分が黒塗りされているかどうか、まだ隠されている文書があるのかどうか……。

現在の政府が、かつての「失敗組織」と同じような愚を繰り返すのかどうかが問われている。

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2025/04/03

卒業アルバムは停止液の臭い

昨日(4月2日水曜日)の午前中、晴れたので散歩に出かけた。
下の娘に誘われた形である。
普段は夕方に散歩に出るのだが、この日は午後雨の予報で、実際午後にはまとまった雨が降ったので、午前中の散歩は有効であった。

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桜はまだ満開に至らないが、欅や柳が芽吹いていて、水辺の景色は優しげになっていた。

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午後は、NHK BS で放送された映画『天国と地獄』(1963年)をカミさんと観た(録画しておいたもの)。
エド・マクベインの87分署シリーズの『キングの身代金』を原作とする黒澤明監督作品である。
前半は原作に沿っているが、特急「こだま」を利用した身代金受け渡しや、後半の犯人を追い詰めていく展開は黒澤オリジナルである。

いちばんの感想は、「昭和三十年代って、あんなだったっけ?」というものだ。
街はごみごみしているし、川は汚れているし、冷房はないし、どこでも(病院の待合室ですら!)タバコを吸うし……。
記憶の彼方にある、あの臭いが、モノクロームの画面から微かに漂ってくるような気がした。

舞台となった横浜や江ノ電沿線は、実家に近く土地勘があるので、その点でも興味深く観ることができた。

その実家に2月に行ったとき、納戸にあった小中学校の卒業アルバムを持ち帰った。
一昨日(4月1日)の午後、その卒業アルバムをバラし、一部をスキャンして処分した。

卒業アルバムのほか、小学校の卒業文集もあり、儂が小学6年生のときに、小学2年生のころを振り返って書いた文章があったので、引用してみよう。
固有名詞を伏せ字にしたほかは、原文ママである。

転校一日目
 ぼくが引っ越して来たのは、昭和四十一年一月十八日のことだった。前にいたのは、「Y国立大学学芸学部付属K小学校」と言う学校だった。略して「付属」と言っている。ぼくは引っ越してきた次の日にもう学校へ行くなんて早いと思ったが、行くことにした。しかし、もしこんどの学校の方が進んでいたらどうしよう。おかあさんは「付属のほうがきっと進んでいるから平気よ。」と言っていたが、なんとなく心配だった。その日は雪が少しつもっていたので、学校に行っても、運動場で遊んでいる子はいなかった。
 そのとき入った組は二年三組、K先生の組だ。ぼくの席はF君のとなりになった。その時間は算数だった。「二円の鉛筆かぶせ六つではいくらですか?。」K先生の声が飛ぶ。F君が「二✕六のことだよ。」と教えてくれたが、なんのことだかぜんぜんわからない。なぜかと言えばまだ付属では、かけ算の九九の「か」の字も習っていなかったからだ。そのときはF君に答えを見せてもらったが、どうしてこうも勉強の進み方がちがうのだろうと思った。
 なんども泣きそうになってしまったその日。家に帰って九九の猛練習をしたその日。けれども今思い出せば楽しい一日だった。けれどももう二度と転校したいとは思わない。

母の想像と違い、教育学部附属小学校は実験的なカリキュラムを組むこともあるので、一般的な公立学校とは進度が違い、掛け算の九九については遅れていたのである。
ちなみに「鉛筆かぶせ」は鉛筆キャップのことで、こういうカルチャーショックもキツかった。

「もう二度と転校したいとは思わない」と書いた2年後、中学2年生のときに再び転校することになる。
さらに中学3年生のときにも転校したので、中学の卒業アルバムは3校分、つまり3冊持っている。

小学校を含めて計4冊の卒業アルバムをバラしてスキャンする工程では、室内に異様な臭いが漂った。
古い卒業アルバムは印刷ではなく「写真」なので、印画紙に染み込んだ現像停止液(希釈酢酸)と、埃や黴の臭いが入り混じった臭いである。

幼少期のアルバムは既にスキャンしたので、これで儂の昭和三十年代・四十年代はすべて電子化され、無臭となった。

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2025/03/28

Big Bad City Blues

昨年末に、早川書房の秋の半額キャンペーンを利用して、エド・マクベインの「87分署シリーズ」54冊を購入した。
その最後の一冊、『最後の旋律』を昨日読み終わった。

シリーズ最初の一冊である『警官嫌い』を読み始めたのがいつだったか、Amazon Kindle の読書履歴を見てもサッパリわからない。
「17週連続で読書しました!」「連続読書日数は43日です!」といった記録はあるが、それがどうだというのだ。
小学生の読書運動じゃないんだから。

儂が欲しいデータは「どの本をいつ読んだか」という単純なものなのだが、これが Kiindle アプリではわからない。
Amazon の個人データにログインしても、購入履歴(どの本をいつ買ったか)はわかるが読書履歴(どの本をいつ読んだか)はわからない。

まぁ、儂の個人的意見として、Kindle の読書履歴管理機能はイマイチである、と言っておく。

だいたい1日に平均1冊のペースで読んだことから考えて、最初の1冊を読んだのは1月の終わりか2月のはじめのはずだ。
最初のころはダウンジャケットを着て、裏起毛のパンツ(暖パン)にひざ掛けという装備でタブレットを操作したが、その手が凍えた。

読み終わりの昨日は、Tシャツにウインドブレーカーを羽織ってジャージ履きでタブレットを操作した。
いつの間にか、土筆が顔を出し桜の花咲く春になっていた。

冬から春まで、晴耕雨読というか、晴れていれば庭仕事や散歩と読書、雨が降ったら終日読書、という日々であった。

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さて、「87分署シリーズ」は、ニューヨークをモデルとする架空の都市アイソラの警察署を舞台とするミステリであり、群像劇である。
「87分署シリーズ」についての解説や書評はネット上に溢れているので、ここでは詳しい説明を省く。

巨大で邪悪な都市(ビッグ・バッド・シティ)で起こる様々な犯罪に地道に取り組む刑事たち皆が「主人公」で、毎回数人がクローズアップされ、何件かの捜査が同時並行的に描かれる。
少なくともエド・マクベインは「刑事たち皆が主人公」と考えていたようだが、二級刑事スティーブ・キャレラが実質的な(シリーズを通しての)主人公となっている。
マクベインは3冊目の『麻薬密売人』でキャレラを殺すつもりだったが、読者に人気のため殺せなかったそうだ。
シャーロック・ホームズや鉄腕アトム、島村ジョー(サイボーグ009)と似たようなもんですな。

「87分署シリーズ」は1956年の『警官嫌い』から2005年の『最後の旋律』までの50年にわたって刊行された。
単に長寿シリーズであるというだけでなく、それぞれの話の中で、時代背景が描きこまれている点でも興味深い。

たとえば、32冊めの『死者の夢』(1977年)には、次のような記述がある。

刑事のひとりはイタリア系だが、薄汚れたレインコートも着ていないし、たえず言葉をとちったり、自分が阿呆だというふりもして見せない。もうひとりの刑事は禿げだが、棒付きキャンデーをしゃぶったりしないし、脳天をきれいに剃って、まるで市長みたいなもったいぶった服装もしていない。

ここに描かれている二人の刑事は、どちらも1970年代のテレビドラマ「刑事コロンボ」と「刑事コジャック」のことである。
49冊めの『ビッグ・バッド・シティ』(1999年)には、次のような記述がある。

二人の殺人課の刑事は、この暑い夏の夜にも黒のスーツを着ていた。黒は死の色、だから彼らはこの色を選ぶ。この市では、昔から黒が殺人課の刑事の色だ。黒のスーツに黒の帽子。この市では、殺人課の刑事はサングラスをかけるだけで青い制服組の兄弟らしく見える。あるいは、映画《メン・イン・ブラック》に出てくる二人のエイリアン追跡者のように見える。

このように時代背景はリアルタイムなのだが、登場人物である刑事たちは、年を取らない。
いや、年は取るのだが、年の取り方が遅い。
キャレラは50冊目くらいで「40歳になってしまう」と嘆くが、(後述するように)本当は80歳くらいのはずだ。
まぁ、「サザエさん」みたいなもんである。
まったく年を取らない「ドラえもん」や「名探偵コナン」には負けるが。

登場人物が年を取らない件については、かなり以前に「アイソラは光速の98.6%で飛んでいる?」という記事を書いて考察してみたことがある。
もちろん、「ウラシマ効果」によるものである。
「87分署シリーズ」はじつはミステリではなくSFだったのか?なんちゃって。

さて、小説の登場人物とはいえ、刑事たちも人間なので、悩んだり、撃たれて入院したり、恋したりする。
「87分署シリーズ」なのに、なぜか隣の88分署のオリー・ウィークス刑事(口の悪いデブで嫌なやつだけど捜査能力は優秀)が主役になったりする。
しまいには、なんとオリーの純愛が描かれたりする。

残念ながら、オリーの純愛の気になる結末は、誰も知ることができない。
エド・マクベインが『最後の旋律』を書き上げた直後に咽頭癌で亡くなったからだ。

半世紀にわたる「87分署シリーズ」の登場人物たちには、いくつかの戦争が影を落とす。
というか、戦争で負った傷が犯罪の引き金になったりする。

『死者の夢』と『最後の旋律』では、どちらも冒頭で盲人が殺されるが、二人とも、ベトナム戦争で視力を失っている(次の引用は『最後の旋律』から)。

「軍隊が無理矢理ベトナムに引っ張っていった。そこで彼の青春は終わってしまった。すべて終わってしまった。戻ってきたときは盲目だ。くだらない戦争に若者を送り込む強がりの大統領に言ってやってくださいよ」

何しろ長きにわたるシリーズなので、登場人物たちの年齢設定がおかしくなっていることは前述の通り。
『歌姫』(2004年)の次の記述ではどの戦争か明示していないが、ホースもキャレラも第二次世界大戦で戦っていたのだ(本当は80歳代?)。

コットン・ホースは、沿岸警備隊の小艇三十八フィートのDPB(引用者注:展開追跡艇(Deployable Pursuit Boat))の上ですっかりくつろいでいた。この小艇は、彼が小さな戦争を戦った時に指揮を執っていたのと同じような船だった。アメリカでは、誰もが自分自身の小さな戦争を戦い、その戦争の中で自分自身の小さな役割を果たす。キャレラは歩兵連隊の架線作業員としてぬかるみを苦労して歩いた。ホースは、これとは異なる船のブリッジに立ち、飛び交う弾丸や水しぶきをものともせずに、にやにや笑っていた。アメリカでは、この国の数え切れない小さな戦争を戦ったり、戦争のために尽くした人はみな、自分が関わった戦争を決して忘れない。時には忘れたいと思うこともあるが。しかし、これからも小さな戦争はさらに増えるだろうし、大きな戦争もある。従って、思い出す機会が増えるだろう。あるいは忘れる機会も。

エド・マクベイン自身も従軍経験があるので、人生を滅茶苦茶にする戦争というやつを容認することはできなかったのだろう(次の引用は『最後の旋律』から)。

キャレラは、幾つ戦争をしたら我々は学ぶんだろうと思った。

「87分署シリーズ」の話はここまで。
次の写真は、家事と庭仕事と読書の間の散歩中に、近所で見かけたキジのオス。

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キジは日本の国鳥だそうだ(1947年に日本鳥学会が選定)。

「国」なんてのは、国鳥とか国土とか国民とかいった具体的なものに冠する言葉であるべきだと思う。
愛国とか報国とかいったワケのわからない抽象度の高い使い方は、戦争の匂いがする。

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2024/12/20

『国家はなぜ衰退するのか』を読んだ

夕方の散歩の際、手が冷たいので手袋が必要な季節となった。
普通の手袋だと写真を撮る時にカメラの操作がしにくいので、モンベルのシャミース フィンガーレスグローブを買って使い始めた。
五本の指の第二関節から先が出るのでカメラや双眼鏡の操作がしやすい。

次の写真は、門池公園のカワセミとカルガモたち。

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表題とは関係のない写真を載せたのは、王様(キング)と領民(カモ)というシャレだが、もちろん、カワセミ(キングフィッシャー)とカルガモとの間に、主従関係や資源・財産の収奪はない。

こんなことを書きたくなったのは、『国家はなぜ衰退するのか』を読んだからである。

著者のダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンがノーベル経済学賞を受賞したこともあり、読んでみたいと思っていたところ、早川書房の秋の半額キャンペーンで半額になっていたので Kindle 版を購入した。

発展する国と衰退する国の差は、どこにあるのか?

これまでの理論では、人種や文化、地理的・生態学的要因などが挙げられていた。
しかし、どうもそれらの要因ではなく、政治的・経済的な制度の違いによって生じるのではないか、というのが本書の趣旨である。

様々な例が示されているが、韓国と北朝鮮を比べてみるとわかりやすい。
韓国と北朝鮮は、人種や文化(分断される前の文化)はほぼ同一であり、地理的な差も小さい。
それなのに韓国は経済的に発展し、北朝鮮は衰退し餓死者が出る状態である。

なぜ韓国は発展し、北朝鮮は衰退するのか。
その理由は、韓国は民主的で自由経済であり、北朝鮮は独裁的(専制的・権威的)で統制経済であるから、ではないか。

こうした論考が、世界各国について、歴史的な推移を辿りながら積み重ねられていく。

いやまぁ、それにしても、ヨーロッパ人による中南米やアフリカの植民地支配は酷いな、というのが上巻の感想だ。

下巻を読み進めていくと、ヨーロッパ人の支配がなくなって現地人による政治体制に変わっても、植民地時代の制度を引き継いだりして、なおさら酷いことになっていることが明らかになる。
いやはやなんとも、権力志向の人間ときたら……。

下巻の最後の三章が本書の「まとめ」となっている。

「第十三章 こんにち国家はなぜ衰退するのか」より引用:

国家が破綻するのは地理的、文化的原因のせいではなく、収奪的制度を受け継ぐせいであり、そうした制度によって権力と富が国家の指導者の手に集まるために騒乱と闘争と内戦へ向かうせいだ。収奪的制度は、最も基本的な公共サービスへの投資を怠ることによって、国家が徐々に衰退する直接の原因にもなる。

ここでいう基本的な公共サービスとは、道路、鉄道、教育などである。

「第十五章 繁栄と貧困を理解する」より引用:

所有権を強化し、平等な機会を創出し、新たなテクノロジーとスキルへの投資を促す包括的経済的制度は、収奪的制度より経済成長につながりやすい。収奪的制度は多数の持つ資源を少数が搾り取る構造で、所有者を保護しないし、経済活動へのインセンティヴも与えない。包括的経済制度は包括的政治制度に支えられ、かつそれを支える。包括的政治制度とは、政治権力を幅広く多元的に配分し、ある程度の政治的中央集権化を達成できて、その結果、法と秩序、確実な所有権の基盤、包括的市場経済が確立されるような制度だ。同様に、収奪的経済制度は収奪的政治制度と結びついて相乗効果を発揮する。収奪的政治制度は権力を少数の手に集中させるため、その少数がみずからの利益のために収奪的経済制度を意地・発展させることに意欲を燃やし、手に入れた資源を利用して自分の政治権力をより強固にする。

それにしても、歴史はカオスだなぁ、と思う。
本書では、生物の進化において、遺伝子浮動が新たな種を生み出すことになぞらえていたりする。
些細な相違や偶発的な出来事が、包括的制度と収奪的制度の分岐を生むのだ。
つまり、歴史的必然というものはない、ということだ。

さて、公共サービス(鉄道とか郵便とか)の民営化とか、政治権力の集中(一党一強体制)とか、法の支配の無視とか、派遣労働や非正規雇用によるインセンティブの剥奪とか、日本は収奪的制度に向かっているのではないか?と思えることがある。
このところの日本経済の衰退は、まさに収奪的制度化していることの結果ではないか?

本書によれば、収奪的制度から包括的制度に移行する方法として、クーデターのような武力による制度改革はうまくいかないことが多いようだ。
権力を握った者が、最初は民主的・包括的な制度を目指したとしても、やがて権力の集中、資源の収奪を容易にする制度を踏襲したがるからだ。

包括的制度に移行し、包括的制度を維持するために重要なのは、人々の多元的な連携、ことにメディアが権力から独立していることだ。
ところが昨今、日本の大手メディアは権力批判をしない。
これまた、日本が衰退へと向かっていることとリンクしているように思う。

なお、原著は 2012年に刊行されたので、SNS の影響については考察されていない。
都知事選や衆議院議員選挙、兵庫県知事選挙などを見ていると、SNS が政治を(庶民にとって)有益な方向へ変革できるのかどうか、ちょっと疑問だ。
本書の著者たちなら、どのように分析するだろうか。

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2024/11/15

SFについて

SFを言い訳に使うな、というかSFとは何かをわかっているのか?
少子化対策として、適齢期の女性に子供を産むように強制する、そのために「あくまでSFだけど」と前置きをして「30歳を過ぎたら子宮摘出」なんてことを言った元ベストセラー作家がいた。
とんでもない発言なので、当然謝罪・撤回に追い込まれたが、儂は別の点にも腹が立った。

これはまったくSFではない。
サイエンス・フィクション(空想科学小説)でもなければ、スペキュレーティブ・フィクション(思弁小説)でもなく、「すこし・ふしぎ」でもない。
この元作家には、SFマインドというかSF魂というか、SFについての理解がまったくないのだろう。

「適齢期の女性に子供を産むように強制する」なんていうのはサイエンスでもスペキュレーティブでもなく、邪悪なポリティカルな視点である。
「子育て罰」なんていう言葉が生まれてしまう社会で、誰が子供を産み育てたいと思うだろうか。
なぜ子供を持つことを選択しない若者、そもそも結婚しない若者が増えたのか、ということを考え、社会を変えていくことこそが、まっとうなポリティクスだと思うのだが。

さて、少子化対策を「本当に」SFにするなら、どうするだろうか。
じつは、すでに幾多のSFに書かれている。

労働力不足が問題なら、ロボット(アシモフ『我はロボット』)や動物(小松左京「期待される人間象」)、死者(伊藤計劃+円城塔『屍者の帝国』)などを活用する。
高齢者や身体障碍者、戦傷者をサイボーグ化したり、パワードスーツを使ったり、脳をリモート接続したりして、労働力とするというSFも数多くある。

子供を増やしたいなら、社会制度や環境は整っているという前提ではあるが、男性も妊娠できるようにするとか、老人を若返りさせるとか、体外環境(工場?)で胎児を育てるようにするとか、そういうSFもあるだろう。

男性中心社会が問題なら、女性だけで政治経済を維持し、男性を不要とすることも考えられる。
生物学的には、もともとオスはメスの劣化版だ。
オスに乳首があるのは退化した名残だからだし、オスのY染色体はX染色体が欠けてできたものだ(Y染色体は数万年後に消滅すると言われている)。
X染色体を含むゲノムと卵細胞さえあれば、Y染色体なしで完全なヒト個体が作れるので、女性だけで妊娠・出産することは、原理的には可能だ。

男性のいない、女性だけの社会。
こういう設定のほうがSF的だよね。

遠い未来、男性は知能を基準に分化して、脳以外が退化した「脳人」か、性器以外が退化した「アダムの裔(すえ)」になる、というSFもある。
脳人は有機コンピュータとして、アダムの裔は快楽・生殖用途の道具として、女性中心社会に奉仕するのだ(小松左京「アダムの裔」)。

どうもSF的に考えると、男性は分が悪い。
というか、男性優位社会というものが非SF的、守旧的価値観に基づくもので、男性の既得権益を維持しようとすると少子化が進んでしまうのかもしれない。

こういうことを書くと、貴様はそれでも男か、男の意地や誇りはないのか、とか言い出す輩がいそうだね。
でも儂は、男性優位社会で男性として生まれたという既得権だけで威張るような輩は、小学生メンタルのガキだと思うのだよ。
成熟した男性としては、いかなる状況についても、冷静に思慮できるようにしたいものだ。
そのほうがカッコイイではないか。

なお、そもそも少子化は問題なのか?対策しなければならないものなのか?という観点もSFになる。

前世紀末には、人口爆発とそれに伴う食糧危機と環境破壊が大問題となっていたのだから、人口が増えないことは、むしろ良いことではないのか?
そういえば、儂が大学で農学を学んだのも、映画『ソイレント・グリーン』(原作:ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』)みたいな世界に恐怖を感じたからだった。

少子化により経済的「成長」が見込めないのであれば、「成長」ではなく「成熟」した落ち着いた社会を目指せないものだろうか(これはSFではない)。

将来、不老不死が実現すれば……不死は無理でも健康寿命が200年とか300年とかになれば、人口は増える一方となるだろう。
すると、子供を作ることが犯罪となったり、「赤ん坊狩り」が行われるようになるかもしれない(木城ゆきと『銃夢 Last Order』)。
まさに「子育て罰」そのもののディストピアだ。
ここに至ると、少子化はまったく問題ではなくなってしまう。

さて、SF思考(SFプロトタイピング)がイノベーション創出や課題解決に役立つのではないかといわれて久しい。
こういう「そもそもどうなの?」という視点の逆転や、ちゃぶ台返し、そしてセンス・オブ・ワンダーこそ、SFの醍醐味である。
センス・オブ・ワンダーによってもたらされる「そういうことだったのか」という感覚、そして「そんなことがあり得るだろうか」「やっぱりそうなっちゃうか」「そうなっちゃった社会はどうなるか」といった思索の重要性に、気がつく人は気づいているのだ。

ちなみに、センス・オブ・ワンダーはSFだけから感じるものではない。
身近な自然現象に触れたときも、人はセンス・オブ・ワンダーを感じるものだ(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』)。
というわけで、SFとは無関係な、庭の小さな自然(変形菌の一種)の写真を載せておく。

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はて、果たしてこの写真はSFとは無関係なのだろうか?

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2024/11/07

クラウゼヴィッツの『戦争論』を読んだ

130年の観測史上最も遅い富士山初冠雪が発表されたが、沼津市からは、雲に阻まれて見えなかった。

その富士山が見えるはずの方角で、モズが高鳴きしていた。

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さて、昨日クラウゼヴィッツの『戦争論』を読了した。

もちろん、難解で(かつ退屈で)挫折する人が多いという全訳を読了したわけではない。
要所要所を抜き出して翻訳したという『縮訳版 戦争論』である(威張るところではない)。

原著はナポレオン戦争後のプロイセンの軍人が書いた本であるから、現代の戦争には適用できないことも多いなぁ、と思った。
海戦についてはまったく、ゲリラ戦については一言二言しか触れられていないし。

その一方、ロシアのウクライナ侵攻については当てはまるように思われるところも多かった。
反対に、イスラエルのガザ攻撃は、クラウゼヴィッツの想定する戦争ではないと感じた。

縮訳版とは言え、410ページあるのでそれなりの覚悟を持って読む必要がある。
1日に1〜2時間ずつ読み進めて、1週間かかった。

そんなに時間が取れない、根性もない、という人は、巻末の解説と、その前の第8篇「作戦計画」を読むだけでも、クラウゼヴィッツの言わんとしていることが読み取れるかもしれない。
そして、なぜ現代、19世紀の著作を読む意義があるのか、という疑問の答えも得られるだろう。

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2024/08/28

『一億年のテレスコープ』を読んだ

台風10号が接近……というか九州の南でノロノロしているせいで、散歩もできない。
もともと20年使ったシステムバスの交換工事のため、今週はカンヅメなのだが。
ということで、本を読む日々。

春暮康一著『一億年のテレスコープ』を読んだ(以下敬称略)。

良質の(センス・オブ・ワンダーを味わえる)ハードSFは貴重である。
しかも生物学的考察がしっかりしている国産の(日本語ネイティブの)ハードSFは希少である。

春暮康一の著作は、『オーラリメーカー』『法治の獣』を読んでいて、読みやすく頭に入りやすい文体には好感をもっている。

ただし本作は、ちょっと凝った構成になっていて、主人公とともに遠くへと旅を続ける本筋と、「遠未来」「遠過去」のエピソードが交錯する。
それらのエピソードの関係に、本筋を読んでいるうちに気づく仕掛けになっている。

儂は Kindle 版を買ったのだが、書籍版のほうが読み返しやすいので良いかもしれない。
読みかけのところに栞か指を挟んでおき、ページをぱらぱらめくって前の方のエピソードを探すのは、物理媒体である本ならではの醍醐味、といえる。

以下、ネタバレを含むので、予備知識や先入観なしに本作を読みたい方は、ご注意いただきたい。


本作(の本筋)は主人公の「現在」の日常からスタートして、 SETI(地球外知性探査)、ファーストコンタクト、宇宙の終焉(?)までを描く。

ざっとこのように書くと、劉慈欣の『三体』『黒暗森林』『死神永生』の三部作を思い浮かべるかもしれないが、まったく違う。
「三体」三部作を読んでいて「あー、なんでそうなっちゃうかなぁ」と絶望的な気分になることが度々あるのに対し(読者を絶望的な気分にさせながら面白く読み進めさせてしまうというので傑作なのだが)、本作にはそのような心配はない。
「宇宙を股にかけた侵略など割に合わないし、誰もわざわざそんなことはしない」という世界(宇宙)だからだ。

そこで、実にさまざまな異星人(地球外知的生命体)が登場し、交流する。

「現在」からスタートして(比喩的な意味で)宇宙の果てまで至る SF といえば、ポール・アンダースンの『タウ・ゼロ』とかアーサー・C・クラーク&フレデリック・ポールの『最終定理』など名作がいろいろある。
しかし『タウ・ゼロ』には異星人が出てこないし(示唆されるが)、『最終定理』は宇宙を股にかけた侵略の話である。

なんていう具合にあれこれ比較してみると楽しいな。

「現在」の日本人の主人公が宇宙の果てまで旅をすることができるのは、脳をスキャンしてネットワークにアップロードする技術が開発された(される)ことによる。
情報化された数百人の人格を宇宙船のコンピュータに搭載して、宇宙を旅するのである。

この設定は、グレッグ・イーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』、アマルガム(融合世界)シリーズで読んだ。
しかし、イーガンの作品中のデジタル化された人格が、複製可能(バックアップ可能)であるのに対し、本作のデジタル人格は複製不能であり、ここがちょっと目新しいところだろう。

脳機能の中に量子的振る舞いをする部分があり、これがいわば複製不能な「魂」に当たる、というわけだ。
義体(ロボットボディ)で活動するときも、その「魂」を収めた量子ハードウェアを搭載する必要があり、その量子ハードウェアが失われることがすなわち「死」となる。

デジタル化した結果、不老であっても不死ではないのである。

さて、異星人(異星の生物)については、『法治の獣』に収められた諸作に登場する生物ほどの特異感……「え、こいつどんな姿をしているの? どうやって生きてるの? 個体間のコミュニケーションは? 生態的地位はどうなってるの?」という戸惑い……は、ない。
オオカミっぽかったり、タコっぽかったり、バッタぽかったり、カラスっぽかったり、ハチっぽかったり……。

しかし、これは作者が「わざと」そうしているのだろう。
異星人の姿や生態を想像しやすくして、物語世界に読者が没入しやすくしているものと拝察する。

『スター・ウォーズ』に「ソラリスの海」みたいな知的生命体が出てこないのと同様と考えればいいかな?

なお本作には、読者にハードSFの知識があることを前提にしていると思われる記述があちこちに見られる。
まぁ、ハードSFとはそういうものだが。

ここでは、覚書を兼ねて、二つの「法則」を記しておく。


クラークの第三法則

(第一法則)
著名な年配の科学者が、かくかくしかじかのことは可能であるといったならば、ほとんどの場合それは正しい。だが、これこれのことは不可能であるといった場合は、誤りであることが非常に多い。

(第二法則)
可能性の限界を知る唯一の方法は、可能の域を超え、不可能の領域まで入ってみることだ。

(第三法則)
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。


ハンロンの剃刀

無能で十分に説明できることに悪意を見出してはならない。

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2024/07/30

『コロナ漂流録』を読んだ

海堂尊著『コロナ漂流録 2022銃弾の行方』を読んだ。

コロナ黙示録』『コロナ狂騒録』に続くコロナ三部作の完結編である。

完結編といっても、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックは終息せず(2024年7月現在、第11波が到達している)、否応なく「ウィズコロナ」状態になっているので、本当に完結編となるかどうかは、著者次第だが。

本作では、表題の通り2022年7月の首相暗殺から始まり、2023年1月の諦めに似た主人公の独白で終わる。

機能性表示食品ならぬ「効果性表示食品」、統一教会ならぬ「奉一教会」、大阪万博ならぬ「浪速万博」など、現実の諸問題を名前を言い換えて記録している。

機能性表示食品については、その後、現実世界において小林製薬のサプリによる健康被害が発生して問題となり、注目を集める事態となった。
機能性表示食品のようないい加減な規制緩和の体質的な問題点を、小説のほうが先に示していたわけだ。

前作『コロナ狂騒録』で「バカ五ヵ条」を開陳した厚労省のはみ出し技官の白鳥は、本作では「創薬詐欺師を見抜く鉄則五ヵ条」を披露する(文庫版246ページ)。

第1条:追従者がいない技術をフカせ
「世界で自分たちだけが特殊技術で成功した」というのは、じつは世界が見放した「成功の可能性のほとんどない技術」だったりする。

第2条:事後解析で有効性を主張せよ
データの改竄や都合の良いデータだけを取り上げて有効性を主張する。

第3条:結果公表を先延ばしせよ
臨床試験結果の公表を遅らせ、補助金を受け取ってから開発を中止にする。

第4条:メディア花火を打ち上げろ
政治家やメディアとつるんで、補助金をゲットし、株価を上げて資金を集める。

第5条:海外治験は欧米以外でやれ
もともと本気で開発する気がないので、委託先の国を公表せずに誤魔化す。

ということで、「創薬詐欺師を見抜く鉄則五ヵ条」と言いながら、「いかにして創薬詐欺師になるか」みたいな鉄則になってしまっていたりする。

こういう創作部分は、いつものバチスタ・シリーズ(桜宮サーガ)のテイストで安心感すら覚えるのだが、この登場人物達なら、やはりポリティカル・フィクションではなくミステリが読みたい気がする。

ちなみに、文庫版の解説は、統一教会を追い続けているジャーナリストの万田ナイト、じゃなくて鈴木エイトが書いている。
万田ナイトは「奉一教会」を追い続けているジャーナリストだった(文庫版157ページ)。

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