« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010/10/20

日本の野生動物はどうなってしまうのか

ウチの近所にも出没して、というかウチの庭だか屋根だかも通ったらしいニホンザルは、ようやく捕まって三島の楽寿園で人気者になっているようだ。
このサルは飼育されていた疑いがあるので、野生動物というわけではないが、日本各地でクマやシカが暴れている。

ワシは学生時代から野生動物の生態を調べてきた結果、ヒトとの間に適度な距離が置かれている状況が望ましいと思っている。
ヒトに被害がなく、ヒトがエサをやったりもせず、動物がヒトになれなれしくするでもなく、山へ行けば姿は見えなくても気配がする(運が良いか根性があれば姿が見られる)程度の状況だ。

地球温暖化などの自然環境の変化、ヒトの産業活動による野生動物の生息域の減少、過疎化による里山の荒廃、自然保護・環境保全活動の行き過ぎた成果としての野生動物の増加……。
原因はいろいろ考えられるが、どれが主な原因なのかはわからない。

加えて最近、新聞などで「ハンター人口の減少」が挙げられている。

じつはすでに30年前から、ハンターの高齢化は問題になっていた。
いまや、職業的ハンター、というか猟師やマタギは現存しているのだろうか?

大学生になりたててで、山でシカなどに出会うのが楽しくて仕方がなかったころは、ハンターは悪人だと思っていた。
なにしろ、密猟者には遭遇するわ(許可されていないメスジカを、許可されているオスジカと間違えて撃ったとヘタな言い訳をしていた)、ハイキングコース越えに散弾銃を撃つバカに脅かされるわ、沢の休憩所を弁当カスとシカのはらわたで汚されて腹を立てるわ、まぁ、嫌な思いをいっぱいしたのだから仕方がない。

生態学を学ぶうち、野生動物による農業・林業被害は必然だ、と考えるようになった。
必然、というのは仕方がない、という意味ではない。起こるべくして起こった、という意味だ。
その理由は、日本の生態系からオオカミが失われたことだ。
食物連鎖の頂点にいたオオカミがいなくなったことで、シカやカモシカなどの大型草食動物の個体数コントロールができなくなったのだ。

だから愛国者たるもの、オオカミの復活を願わなければならない。

冗談(半分)はさておき、大型草食動物は、それにたぶん、大型雑食動物(サルやクマ)も、個体数をコントロールする必要がある。
そのコントロールの役目をハンターに任せることができるだろうか?
いやぁ、難しいだろう。
オオカミのように、食物連鎖の中にいて、「獲物」の個体数変動が自らの個体数に影響を受けるような状況でないと。
猟だけで生計を立てているならともかく、銃を撃ちたいだけの週末ハンターには任せられない。

せめて、「野生動物の個体数コントロール」の重要性をよくわかっている人間でないと……。
……そうか……。
これまでカメラやフィールドスコープのレンズ越しに野生動物を見てきた人間が、カメラを銃に持ち替えて山へと向かう必要があるのだろうか……。

なんだか、ニコルがそんなことを書いていたような気がするなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/18

秋の夕暮れは早い。人生は短い。

二十数年前の祖父の火葬の際、煙突から昇る煙を見た。
先週の祖母の火葬の際には、煙突を見上げることもなかったが、そもそも煙突から煙が出なくなっているようだ。
ダイオキシンその他の規制が厳しくなったからだろうか。

なんてことを考えたのは、以前「百の元素になって」にも書いたが、人体を構成する物質の大部分は、水蒸気と二酸化炭素、窒素酸化物となって地球の物質循環へと戻るからだ。
カルシウムをはじめとする金属元素(いわゆるミネラル)は「お骨」として残るわけだが、質量としては小さい。
「95歳の女性としては、立派なお骨です」と火葬場の担当者が言っていたが、骨壺に入ってしまうのだから、人体の大部分は大気中に拡散するわけだ。

そういえば、この火葬場の担当者がアンジャッシュの渡部と川越シェフを足して2で割ったような風貌・歳格好だった。
ようするに若い人なのだが大変にていねいであった。
彼もまた「おくりびと」なのだよなぁ、と思った。

このところ正月などに実家に帰ることが少なかったので、親戚一同と会うのは久しぶりだった。
イロイロと悪いことも教わった叔父貴たちは還暦を過ぎ、仮面ライダーごっこやウルトラマンごっこの相手をした年下の従兄弟たちも四十を過ぎて子持ちとなり、ということから否応なく自分の歳も思い知らされる。

秋の日暮れが早いのと同様、自分の人生の先もそう長いものではない。
少なくとも半分は過ぎてしまったのだと思うと、やり残したことが気にかかる。
まずは木の葉が落ちる前に休みを取って、山に行かねば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/16

ユニクロCMのフクロウが変だ

ユニクロのウルトラライトダウンジャケットのCMの最後に、フクロウが飛び立つスローモーション映像が入る。
そのフクロウ、じつはものすごく変である。
現実にはあり得ない「足」をしているのだ。

スズメとかカラスとかハトとか、とにかく身近にいる鳥の足を見てみよう。
止まり木に止まっているとき、あるいは地上を歩いているとき、指は前に3本、後ろに1本、となっている。

Bird_foot_3_1

枝や指に止まっているところを見ると(カラスやハトには指に止まれないが)、後ろの1本がヒトの親指に相当し、対向する3本とで枝や指を握っていることがわかる。

ユニクロのフクロウの足の指も、前に3本、後ろに1本……だから、変なのだ。
フクロウの足の指は、前に2本、後ろに2本である。
本当かどうか、ハリー・ポッターの映画のヘドウィグで確認してみてはいかが?

Bird_foot_2_2

じつは、足の指が2本ずつ対向していてX形に見えるのは、フクロウ科(フクロウとミミズク)だけではない。
キツツキ科、カッコウ科(カッコウ、ホトトギスなど)の鳥の足の指も、2本ずつ対向している。

キツツキの場合、X形に踏ん張れるほうが、木の幹に垂直に取り付いて移動するには便利そうだ。
フクロウの場合は、ネズミのような小さな獲物を捕らえて逃がさないようにするのに都合が良いのだろうか。
ワシタカの類はみな、3本と1本が対向する形だから、X形のほうが超便利……というわけではないと思うが。

……では、カッコウの足の指は、どんな適応なのだろうか?

うーむ、わからん。
現在の形態について、無理に適応的な説明を考えないほうが良いのかも。
進化の過程のどこかで「2本ずつ対向」の祖先が生き残り、そのままモデルチェンジしなかった、なんてことだったのかもね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/13

隔絶された環境からの生還

落盤事故で地下に閉じ込められた作業員が、次々と救出される。
……というチリからのライブ映像を、会社のPCで見た。

地球の反対側からの映像を、遠く離れたところからネットワーク越しに見る。
なんだかデジャブのようだなぁ、と考えていて、思い出した。
アーサー・C・クラークのSF『渇きの海』の救出シーンに似ているのだ。

『渇きの海』では、地球の反対側の鉱山ではなく、月の裏側の海を覆う塵の下に月面遊覧船の乗組員と観光客が閉じ込められる。
地表と隔絶された環境、1本のパイプを通じて届けられる水やメッセージ。
掘り出すことができないので、人が入れるサイズのパイプを使って、一人ずつ救出する……。

一方は現実で、一方はフィクションだが、隔絶された環境からの生還を扱い、救出に至る過程がライブ中継されるところまで同じだ。
21世紀の現実と、半世紀前の一人の技術者/作家の空想との、不思議な共鳴。

ともあれ、救出劇は現在も進行中だ。
全員が無事生還されることを願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/11

なぜ幼虫は道を横切るのか?

先週は毎日のように、ウチの駐車場でツマグロヒョウモンの幼虫を踏みそうになってギョッとし続けていた。
ツマグロヒョウモンの食草はスミレ科の植物の葉である。駐車場のヘリにタチツボスミレが生えていて、そこにツマグロヒョウモンの幼虫が何匹もいたのだ。
しかし、そのタチツボスミレも葉の軸だけが何本も突っ立っているだけの状態になり、幼虫たちはほかのスミレを探しに旅立ったのだろう。

中には、ウチの前の通りを横切って、向かいの家の花壇を目指しているヤツもいた。

タテハチョウ類の幼虫は目立つ。
ツマグロヒョウモンも、黒いトゲトゲに赤い筋という、かなり毒々しい装いである。
ただし、この毒々しさは、虚仮威し(こけおどし)である。
毒はまったくない。

P0938s

黒いトゲトゲは、触れるとゴムのような質感で、グンニャリと曲がる。
刺さって痛い、なんてことはなく、むしろ気持ちが良い。
さすがに、頬ずりしたいとは思わないが。

また、身体自体も毒を持たない。
ウマノスズクサを食べるジャコウアゲハの幼虫のように、不味いわけではない。
サンショウやヘンルウダを食べるナミアゲハの幼虫のように、臭いわけでもない。

「なんか、いかにも毒を持っていそう」という風体だけで、身を守るのである。
これまで何百万年も生き延びてきたのだから、たぶん、「毒々しいフリ」は、鳥や獣に対して有効な防御手段なのだろう。

それにしても、なんでこんなに毒々しく目立つ格好をしているのだろう?
ひょっとして、移動するから目立つようにしているのか?
逆だ。毒々しい色や恐ろしげな形をしていないと、移動中に鳥に食われてしまう。

そもそも、移動しなければならないのは、多めに卵が産みつけられるからではないか?

アゲハチョウの産卵行動を見ていると、あっちにポツリ、こっちにポツリ、と、離れたところに卵を産んでいる。
一株あたりのサンショウやヘンルウダの卵の数(=幼虫の数)は2〜3個で、幼虫が成長する間に食い尽くされることは、まず、ない。
ところが、ツマグロヒョウモンの幼虫は、スミレやパンジーが裸になってしまうぐらいになる。

アゲハチョウのように、あくまで安全係数を高くとって、食糧危機が起きないような戦略と、ツマグロヒョウモンのように、食糧危機に陥ったら移動すればいいじゃん、という戦略。
それらの戦略と、「臭いで防御」「虚仮威しで威嚇」という生態とは、深く結びついている。
ツマグロヒョウモンの幼虫が移動せざるを得ないことと、目立つ姿、そのどちらがキッカケになったのだろうか。

さて、ざっと6〜7匹いた我が家のツマグロヒョウモンの幼虫は、すべてどこかへ消えた。
大きさがまちまちだったが、みな終齢幼虫だったのだろうか、育ち盛りのヤツはいなかったのだろうか、と気になっていた。
終齢幼虫なら、どこかで蛹(さなぎ)になっているだろう……。

……と思って今朝、外壁の屋外コンセントの下に黒い蛹がぶら下がっているのを発見。
黒くてピカピカのトゲのある垂蛹(すいよう)は、間違いなくツマグロヒョウモンだ。
触ると、激しく震えた。

P6223774s

どうやら、旅立った幼虫のうちの少なくとも1匹は、冬越しの準備ができたようである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/10

ノーベル賞

2008年にも同じタイトルで書いているので、次の点については重複するため割愛。
→評価されているのは30年前の研究
→日本での研究ではなくて、日本人研究者による海外での研究成果が評価されている

だから別のことを書こう。

そもそも、有機化合物をくっつけること(クロスカップリング)が、なんでそれほどすごいことなのか?

有機化合物とは、炭素を骨格とする化合物である。
糖やデンプンなどの炭水化物、脂肪、アミノ酸、タンパク質、合成樹脂等々、我々の身体自身から身の回りの品々まで、有機化合物だらけである。

さて、その有機化合物、とくに複雑な有機化合物を、単純な有機化合物へと分解するのは、比較的簡単である。
例えば、デンプンに水を加えて(こげないように注意して)加熱すれば、水飴状になる。
これは、デンプンが分解されて糖になったのだ。
さらに加熱して(燃やして)、無機物である二酸化炭素や炭(炭素の塊)にするのも、まぁ簡単である。

ところが、糖からデンプンを作るのは簡単ではない。
有機化合物の骨格である炭素同士は、熱エネルギーを与えて結合を切るのはたやすいが、結合させるのは難しい。
少なくとも、台所でやるのはムリだ。

そこで、はしっこに亜鉛やホウ素のくっついた有機化合物を使い、パラジウムという金属を仲立ちにして、うまいこと炭素同士を結合させる、という方法を発見したのが、今回のノーベル化学賞受賞者である(亜鉛を用いたのが根岸さん、ホウ素を用いたのが鈴木さん)。
高温や危険な物質が不要で、有害な副産物が生じることもなく、工業レベルで有機化合物合成が可能なので、医薬品から液晶や有機EL(発光素子)まで、広範に利用できる。
……ということで、試験管内で(サイズは工業規模でも)有機物の合成を行うのはなかなか大変なことである。
ところが、生物はアッサリと有機物の合成をやってのける。

動物や菌類は「必ず」有機物を食物として摂る。
肉を食えば、アミノ酸に分解(消化)して吸収し、細胞内に取り込んでから合成して、身体を構成するタンパク質に仕立て上げる。
イモを食えば、デンプンを糖に分解してから吸収し、エネルギー源として燃やす一方、合成してグリコーゲンとして蓄える。

植物は動物や菌類よりも進化しているので、有機物から有機物を合成するだけでなく、無機物から有機物を合成する。
単純な有機化合物の合成は、試験管内でも効率的にできるようになっているが(化学合成肥料が安く大量にできるものだから、環境問題を引き起こしたりするが)、複雑な有機化合物の合成は、まだ安上がりにできない。

だから、食料生産はいまだに「生物を育て、殺して食うこと」なのである。
食料合成を化学的(工業的)にできるようになったら、それもノーベル賞級の発明ということになるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/05

証拠FD改ざんの謎

証拠FD改竄かいざん事件、新聞などの報道から考えて、どうにもわからないことがある。
というか、とっても胡散うさん臭い。

一般企業だったら考えられないようなことばかりだ。
2004年にFD(フロッピーディスク)にデータを保存しているというのも不思議だったりするが(そろそろFDドライブのないPCが出回ってくるころだ)、まぁ、役所の規則は古臭いし、機械も古いものを大事に使っていたりするから、案外FDが有力なリムーバブルメディアだったのかもしれない。
古い機械やメディアを使っていても、業務遂行の効率が落ちなければ良いのだけどね。

さて、胡散臭いことその1。
大切な証拠品のFDを受け取ったら、PCにセットする前にやるべきことがあるはずだ。
それをやっていないのが胡散臭い。
これは、出版社の社員が著者からFDを受け取ったときの心得と同じである。
このFDの中のデータだけが唯一のモノ、この世に一つしかない重要なモノだとしたら、まずやるべきことは、何か?

ライトプロテクト・ノッチを動かして、書き込み禁止にする。

書込み禁止にしておけば、「うっかり」データを削除したり、日付を書き換えてしまったりするというミスを防げる。

それから次にすべきことは何か?

まずは、FDのデータをPCのHD(ハードディスク)にコピーにする(ローカルPCへのコピーがセキュリティポリシーで禁止されていなければ)。
ここでFDを取り出して、大切に保管する(できれば耐磁処理のされた耐火金庫に)。

次いで、PCのHDのデータを、ファイルサーバにコピーする。
ファイルサーバにコピーしておけば、日次でバックアップするのでディスクがクラッシュしても安心だ。

それに、セキュリティや情報漏洩ろうえいに気を使う企業なら、ファイルサーバへのアクセスや、FDやUSBなどのリムーバブルメディアへの書き出しのログをとる。
誰がいつ、どのファイルにアクセスしたか、情報を改変したか、外部へ持ち出したか、その記録を録っておいて、何か不都合が起こったときに調査できるようにする。
それだけでなく、ログをとることは不正の抑止力になるのだ。

さてさて、こうしてデータを二重に安全に保管しておいて、データをいじる作業はローカルPCのHDで行う。
うっかりデータを壊してしまったら、大変だからね。
決して、FDのデータをUSBメモリにコピーして、FDをセットしたままUSBメモリのデータをいじる、なんてことは、怖くってできない。

……ということで、うっかり原本をいじってしまった、なんてことはとっても信用しづらい。

それに、よく考えると、というか考える前に思い付いたのだけれど、日付のデータをいじるときには、まず、PCの時計を変えておくものだ。
そうしないと最終アクセス日付が「新しい」ものになってしまうからね。

……ということで、不正なことをしたんだとしても、初歩的なことができていない。

まぁ、シナリオどおりに事実を捻じ曲げようなんて非科学的なことをする輩は、どんなに頭が良くっても頭の使い方を誤っている馬鹿者だ(なんてことをワシなんぞに言われちまうんだぜ)。
いったいどっちを向いて(誰のために)仕事をしているのだか。

しかし、司法に携わる人たちは善意の人のほうが多くって、この異常な状態を正常に戻そうと努力してくれている……と信じたいもんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »