100年前の9月1日の関東大震災。首都近傍で発生した地震は、建物の崩壊や火災によって甚大な被害をもたらした。物理学者の寺田寅彦は震災後に被災地を回り、文明化すると脆弱性が増して被害の規模が大きくなるのではないか、と随筆に書いている。軍備を整える国防ではなく、観測網の整備や防災などの国防のほうが重要ではないか、とも書いている。
「天災と国防」
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「時事雑感」
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44年前、大学生だった儂は放射線生物学を学んだ。ここ4回にわたって書いている記事の基礎知識は、だいたいこのときに得たものである。原子力を「最先端の科学」とか言う人がいるが、なんだかなぁ。IT関係で食ってた儂は、建造後60年を超える原発を稼働させるとか聞くとゾッとする。4〜5年前の技術が役に立たなくなるだけでなく、リスクになるような仕事をしてたからかもしれないが。
もちろん、廃炉とか核廃棄物の長期保管とか生態系内の放射性物質の挙動とかについては未知の領域だから「最先端」と言える。しかし、増殖炉とか次世代型原発とかを持ち出されると、「トイレのないゴミ屋敷に住んでいるくせに新しいおもちゃを欲しがるんじゃありません」と言いたくなるわな。
それはさておき、ゴミの話。じゃない、放射性物質について、前回の続き。
トリチウムがヘリウムに変化する際にβ(ベータ)線が放出される。β線という名前は、α(アルファ)線と区別するためのものだ。透過力の弱いほうがα線、それより強いほうがβ線、というように名付けられた。
α線はヘリウム原子核(陽子2個と中性子2個)の流れである。透過力が弱く紙で遮蔽できる。とはいえ原子核だから大きくて重いので、体内に取り込まれたときの影響は大きい。
β線は放射性物質から放出される電子(または陽電子)である。紙や木材は透過するが、薄いアルミ板や厚いプラスチック板で遮蔽できる。

19世紀末にラザフォードがウランから発生するα線とβ線を発見してから2年後、ヴィラールがさらに透過力の強い放射線を発見し、γ(ガンマ)線と名付けた。γ線を遮蔽するには鉛の板が必要だ。γ線の実体は粒子ではなく、高エネルギーの電磁波である。電波や光のようなものだ。
放射性物質から生じる放射線には、このほかに中性子線や陽子線もある。
ちなみに電子銃などの装置を使って放射線を発することもできる。電子銃からは電子線(エレクトロンビーム)が出るが、出自の違いのほかはβ線と同じである。一昔前の(二昔前かな?)テレビ受像機のブラウン管には電子銃が1〜3本使われていた。どの家庭にも放射線発生装置があったのだ。
電子線が金属にぶち当たると、X(エックス)線が放出される(制動X線という)。つまり、どの家庭にもX線発生装置があったわけだが、ブラウン管前面のガラスで遮蔽されていた。

(2021年9月の記事「草原とスクリーンセーバー」より)
蛇足だが、既知の放射線の中にはウルトラマンの武器であるスペシウム光線は存在しない。そもそもスペシウムという名前からして元素名くさいので粒子線だと思うが、すると光線ではないんじゃないか、とツッコんでおこう。
トリチウムからはβ線が放出される。β線は透過力が弱いので、アルミやプラスチックの板で遮蔽できる。皮膚の表面の細胞は傷付くが、貫通できないので大きな被害はない、と言われている。
しかしそれは、放射線源が体外にあり、外から放射線を浴びる場合だ(外部被曝)。放射線源を体内に取り込んでしまい、体の内側で放射線が発生する内部被曝(体内被曝)は、外部被曝よりも深刻である。
どういうわけか、原子力ムラの人たちは内部被曝を軽視する傾向があるように見受けられる。内部被曝についてはわかっていない点も多いので、環境中の線量だけを見て「科学的に安全」とは言い切れないと思うのだが。
内部被曝はなぜ深刻なのか。
細胞の70%は水である。そこにトリチウム水が紛れ込み、β崩壊する。β線は水中を1cm程度進む。1cm進む間に、いくつの細胞を通過するだろう? 細胞の直径を10ミクロンとすると、1000個くらいか。そして、それらの多くの細胞の核内の遺伝子DNAや、免疫機構などを担う細胞膜のタンパク質を破壊する。
また、生物にとって放射線は危険なことは言うまでもないが、線量が低いときは、放射線そのものよりもイオン化作用の影響のほうが大きいという。どういうことか。
放射線が分子を通過するとき、分子を構成する原子に捕獲されたり、あるいは電子をはじき出したりして、原子をイオン化する。するとイオンになった部分で分子はちぎれてしまう。あるいは、活性酸素のような反応性の強いイオン(ラジカル)になる。

放射線が原子に捕獲されなくても、近傍を通過するだけでイオン化作用は起こる。つまり1個の放射線粒子が通過しただけで、膨大な数のイオンが発生する(分子が破壊される)のである。

放射線やイオン化作用ではなく、放射性崩壊によって元素が変わってしまうこと自体も生物体に影響を与える。
トリチウム水のトリチウムがβ崩壊したら、ヘリウムになる。ヘリウムは酸素と結合しないので、H2Oは活性酸素(OHヒドロキシラジカル)になる。この活性酸素がDNAの近傍にあれば、DNAを引きちぎるだろう。
人体にトリチウム水が取り込まれても、10日かそこらで排出されるから危険は少ないという。だが、トリチウム水が植物に取り込まれた場合は、それほど単純な話ではない。
植物は、二酸化炭素と水から糖分などの有機物を合成する。その際、ただの水の代わりにトリチウム水が使われれば、トリチウムが有機物に組み込まれる可能性がある。こうして糖分やアミノ酸に含まれるトリチウム、「有機結合型トリチウム」ができあがる。
【参考】環境中のトリチウム(環境省)
https://www.ies.or.jp/publicity_j/mini/2007-04.pdf
動物は(つまり人間も)必ず植物を食べる(または植物を食べた動物を食べる)。植物が作った糖分やアミノ酸に含まれる有機結合型トリチウムは、動物の体内に吸収される。糖分やアミノ酸はエネルギー源や細胞の構成素材として使われるが、過剰なものは脂肪として蓄積される。いったん脂肪になったらなかなか減ってくれないことは、皆さん御存知の通り。
つまり有機結合型トリチウムは、トリチウム水ほど短期間に体から出ていかないのだ。長期間体内に留まるので、ベータ崩壊による影響も大きい……と思われる。思われるのだが、有機結合型トリチウムの生物体内での挙動や影響については、よくわかっていないのである。それなのに安全だと言い切ることはできまい。
有機結合型トリチウムになってしまうと、もう一つ厄介な点が出てくる。食物連鎖を通じた生物濃縮である。植物よりも植食(草食)動物、植食動物よりも肉食動物というように、食物連鎖の上位にいる生物ほど、汚染物質を溜め込みやすい。水俣病の有機水銀やイタイイタイ病のカドミウム、有機塩素系農薬、PCB、PFASなどの不滅の化学物質、マイクロプラスチックなどと同様に、健康や生態系への影響を考える必要がある(このあたりも原子力ムラの御用学者が軽視する領域だ)。

トリチウムの生物濃縮の実態については、詳しいことはわかっていない。水に流せない形になったトリチウムについて、薄めて海に流せば大丈夫、安全だと言ってしまって良いのだろうか?
もちろん、前回書いたようにトリチウムは自然に生成されるものなので、地球上の生命はトリチウムの影響を受け続けてきた。DNAは二重らせんなので切断のリスクに多少は対応できる。だが、人工的に作ったトリチウムを環境中にばらまき、リスクを増やすことが賢いこととは思えないのである。
何より、他の方法を検討せずに海洋放出を強行したことが最大の問題点である。かなり難しいらしいがトリチウムを除去する方法はあるし、空気中に少しずつ放出する方法もある。汚染水の容量を減らして保管し続ける方法だってあるだろう。
安全だから海洋放出するというのなら、福島の海にではなく、原発推進派議員の地元の海や湖に撒けばいいのに……。
という変な話(変かな?)になってしまうのは、汚染水の海洋放出可否が科学の領域ではなく、倫理や政治の領域の話だからだ。
そもそも科学とは別領域で誤った決定をした結果が、あふれかえって処理に困っている汚染水なのだ。
地下水の多い立地に原発を建ててしまったとか。
津波被害を過小評価した(というか封殺した)とか。
全電源喪失を想定せず、本店の口出しで対応が遅れ、ベントなどの訓練を怠っていた結果としてメルトダウンを招いたとか。
最先端の技術とか言って地下水流入を防ぐ遮水壁に凍土壁を導入したけれど期待したほど効果がないとか。
はぁ、元気がなくなるなぁ。
「処理したけれど汚染水」の海洋放出については、トリチウム以外の放射性物質(セシウム、コバルト、ストロンチウムなど)についての懸念もある。これについては、またいずれ書くことになるだろう。