2016/09/19

10万年の平和ボケ

巽好幸著『富士山大噴火と阿蘇山大爆発』(幻冬社新書)を読んだ。
書名はアレだが中身は至極真面目である。

火砕流で700万人が瞬殺され、北海道まで火山灰が降り積もると予想される、九州の巨大カルデラ噴火。
おそらく日本が壊滅するであろう大災害が発生する確率は100年間に0.3%だから、10万年のうちに3回は起こることになる。

えーと、核廃棄物を国が10万年間管理するとかいう話があるが、まさに平和ボケである。
これ以上、核廃棄物は増やさないに限る。

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2015/09/21

『天空の蜂』とプルトニウム

防衛庁(省ではない)に納入直前の巨大無人ヘリが奪われ、稼働中の高速増殖炉の上空でホバリングし、犯人からの要求が電力会社や政府・役場に届く。
燃料が切れてヘリが墜落するまでに、日本中の原発を停止させ、稼働できないように破壊すること。

無線操縦で離陸し、プログラムにしたがって滞空し続ける世界最大のヘリには、試験飛行を見学に来ていた技術者の息子が(誤って)乗っていた。

上空千メートルのヘリからその子を救い出すことはできるのか。
技術者たちは巨大ヘリの墜落を防ぐことができるのか。
ヘリの墜落に備えて原発ではどんな対応ができるのか。
日本政府は要求に応えて原発を停止させるのか。
犯人は誰か、警察は犯人にたどり着けるのか。

そして、犯人の本当の目的は何か?

(以下、ネタバレ注意)

1995年の小説である。
講談社文庫版で読んだのだが、第1刷の発行は1998年11月。
先日(9月12日)の映画公開に合わせて書店の店頭に山積みになっていたので買ってみたら、2015年6月発行の第67刷だった。

20年前の小説なのに、現在も変わらぬ原発の問題点が盛り込まれている。

不安を口にできない原発立地の住人。
「麻薬」のように交付金漬けになってしまう自治体。
労災認定されない原発労働者の死。
線量を誤魔化さないと回らない原発の下請け労働者の環境。
嫌がらせを受ける反原発運動家。
原発こそがエネルギー危機を救うと信じて疑わない……疑うことを恐れる……原発技術者。
じつは高速増殖炉よりも危険かもしれない、使用済み核燃料。
ないと困るが、あることを歓迎されない、原発と自衛隊。

一方、20年の間に変わったこともある。

高速増殖原型炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が起こった(1995年12月)。以後、高速増殖炉の計画は事実上頓挫した。
防衛庁は防衛省になった(2007年)。
ニューヨークの貿易センタービルが、テロにより崩壊(2001年)。航空機によるテロの恐怖がより現実的になった。
阪神淡路大震災(1995年)、新潟県中越大震災(2004年)、東日本大震災(2011年)の災害支援を通じて、「戦わない軍隊」としての自衛隊の評価が高まった。
原発が「想定外」の災害に弱いことが露呈した(2011年)。

そして、『天空の蜂』で原発の問題点として挙げられていなかった、使用済み核燃料、核廃棄物の問題。

1995年には16トンだったプルトニウムは、2011年には44トンと、3倍近くに増えている。
使用済み核燃料や廃棄物にいたっては、いったい何万トンあるのやら。

犯人の一人(そして主人公の一人でもある)が望んでいたことは、日常使われている電気がどうやって作られているかに無関心な人びとに、原子力について考えさせること。

これは、2011年3月11日以後、日本のみならず世界中の誰もが、考えざるを得なくなった。
だが、人々の思いはどうあれ、政府は原発を諦めようとしない。
いったいなぜだろうか?

まさか、あの、プルトニウムを……

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2015/04/27

ようやく『ディアスポラ』を読み終えた

ネパールの地震は情報が入るたびに大きな被害が明らかになる。
ヒマラヤ登山のベースキャンプを襲う雪崩の映像を見ては、その速さに驚く。
プレート境界にできた巨大山脈は、当然地震の巣であるわけだが、その話はもう少し情報を整理してから書きたい。

さて、『ディアスポラ』はオーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンのハードSF長編である。
ハヤカワ文庫なら、けっこう厚い長編であっても、たいがい二日か三日で読み終わる。
しかし、『ディアスポラ』は三週間かかった。
途中で別の本(マンガやユーザインタフェースの本)を読んでしまったということもあるが、それも『ディアスポラ』がけっこう取っ付きにくいからである。

何しろ、「人間」は数人しか出てこない。
主人公ヤチマやその仲間たちはみな、「ポリス」と呼ばれるコンピュータ内の都市に住むソフトウェアなのである。
中には生きた人間をスキャンして作られた「人」もいるが、主人公はイチから創造された人格である。
人間のDNAを元に仮想的なニューロンを作り、そのネットワークを発火させることで存在する人格……主人公がこんな具合だから、感情移入がしにくいのだ。

おまけに、ワームホールを用いた超空間航法の開発(結局失敗する)やら、自然発生した炭水化物オートマトン上の知性やら、五次元空間の惑星上のヤドカリに似た知的生命体やら、仕事で疲れたアタマでは付いていけない光景のオンパレードなのである。
もちろん、中性子連星の衝突によって発生したガンマ線バーストが地球環境に及ぼす影響とか、肉体を持つ人間とロボットにダウンロードされた「ポリス」市民のコミュニケーションとか、興味深いエピソードもたくさんあった。

だからイーガンのSFは面白いのだが、何しろ疲れるのである。

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2015/03/21

『SF映画で学ぶインターフェースデザイン』を読んだ

『SF映画で学ぶインターフェースデザイン』を読んだ
SF映画には「ありえない」インターフェースが多い。
情報量が多すぎたり、無意味なアニメーションが表示されたり。

だが、現実のインターフェース改良に役立ったり、新しいインターフェースのヒントになったりするものもある。

『スターウォーズ』の宇宙船の飛行音や射撃音や命中音は本来「聞こえない」はずのものだ。
しかし、これが(観客向けではなく)パイロット向けのものだとしたら、優れたインターフェースかも知れない。

敵機の接近やその方向、ちゃんと弾丸(光線?)が発射されていることの確認、命中したかどうかを、コンピュータが音を合成して知らせるというしくみは、音声メッセージやディスプレイよりも優れている。
メッセージの意味を考えたり、ディスプレイを見たりする必要がなく、ヒトがもともと持っている音源定位能力や感覚を活用できるからだ。

本来の目的に集中するために、「本来は聞こえない音」を合成して目の前の光景に合わせて重ね合わせる「拡張現実(AR)」ユーザーインターフェースは、宇宙船の射撃管制システム以外にも使えそうである。

ヒントはあらゆるところにある。ユーザーインターフェースをデザインするデザイナー/エンジニアに必要なのは、観察力と想像力なのだなあ。

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2014/10/24

『零式戦闘機』を読んだ

吉村昭著『零式戦闘機』を読んだ。
牛のエピソードから始まり、馬のエピソードで終わる。

宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』にも描かれていた、飛行機を工場から飛行場まで牽いて行く、あの牛である。
牛で(後には馬で)、飛行機を運ばなくてはならない国が、工業大国と戦争したのである。
なんと無謀なことか。

まぁ、地震と火山の島国で、また原発動かそうなんて考えるのも無謀だけどね。
本質は変わっていないということか。

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2014/06/19

「非戦反核」を目指して、ちょっとだけ動いてみた

1985年に書かれたグレッグ・ベアのSF小説『永劫』を読み返している(スキャンしてタブレットに読み込んであるのだ)。
この物語世界では、2005年に全面核戦争が起きて25億人(あるいは、その倍)の人びとが死傷し、数年間の核の冬に見舞われる。
作中の『〈破滅〉略史』(2135年刊)には、次のような記述がある(時空を扱うSFでは、時制がめちゃくちゃになるのだ)。

いまからふりかえってみれば、ひとたび武器が開発されたなら、それが使用されるのはごく当然のことのように思われよう。だがわれわれは、二十世紀後半から二十一世紀初頭にかけての、当時の不見識と混乱を失念している。当時にあっては、もっとも破壊力の大きな兵器は戦争抑止力とみなされ、ハルマゲドンの恐怖の前に、正気の世界であれば戦争を思いとどまるだろうと考えられていたのである。だが、国家というものは正気ではない。合理的で、冷静で、冷めてはいるが、けっして正気ではありえない。各国の兵器庫には、潜在的な不信、さらには憎悪さえしまいこまれていたのである。(p.166-167: 酒井昭伸訳)

原発を再稼働し、プルトニウムを貯め込む。その目的は核兵器か?

国家が正気でないなら、国民が正気を保たなくてはならない。

憲法9条を抱き、平和を維持することに努めてきた日本国民に、ノーベル平和賞を。
……という趣旨に賛同して、インターネット署名をした。
積極的」に「平和」を希求していることを示す、平和的な行為は何だろう、と考えた結果である。

change.org「世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください

同じ思いを抱く各国の人々に訴えかけ、平和な生活を「自衛」するための「集団的」行動である、とも言えるかな。

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2014/05/20

『放射能と人体』を読んでいる

落合栄一郎著『放射能と人体』(講談社ブルーバックス)を読んでいる。
放射線が生物体に及ぼす影響というものは、まだまだわからないことだらけなのだねぇ。

ワシが放射線生物学を学んだのは、もう35年も前だが、それほど進歩していないように思える。
低線量被曝や内部被曝、放射性物質の体内での挙動については、不明な点が多いようだ。

おそらくこれから、知見が蓄積されていくのだろう。
広島、長崎、第五福竜丸、チェルノブイリ、JCO、福島第一。
被害を受けた人びとがいて初めて、知見が蓄積されていく。
被害を受ける人がいないと、わからないというこの歯がゆさ。

何とかならないか。
何ともならないのだろうなぁ。

せめて、今後二度と、このような人体実験がないことを望む(しかし、原発を再稼働すれば「必ず」また起こるだろう)。

ワシの考え方は基本的に35年前から変わっていないなぁ。
以前は放射線についてどんなふうに考えていたか、思い返してみよう。

小学生のころ:
原子力は「すごいもの」「すばらしいもの」「未来的なもの」「最先端の科学技術」だった。
『鉄腕アトム』や『サイボーグ009』を読んで育った世代だからね……。

中学生のころ:
プラモデルや模型工作から兵器に興味を持ち、当然のように戦争について調べているうちに、「戦争ってカッコイイもんじゃないかも」と思い始めた。
そして高校野球のTV中継中、8月6日午前8時15分に「黙祷」を捧げる意味に気付いた。
「死の影」や「黒い雨」というものの存在を知ったのもこのころだが、まだ「放射線は大量に浴びると死をもたらすすごいもの」程度の認識だった。

高校生のころ:
物理で放射線について学ぶ。生物学で突然変異について学ぶ。
「なるほど。放射線で遺伝子が傷ついて、細胞が死んだり、遺伝子の突然変異でガン化したり生殖障害が起きたりするわけだね」と言う程度の認識を得た。

大学生のころ:
放射線生物学を学ぶ。
アルファ粒子が遺伝子をぶった切ったりしなくても、放射線によってイオン化した細胞内の物質が、細胞に悪さすることを知った。
例えば、ベータ線が水分子に作用して活性酸素を作り出すとか。
トレーサー(炭素14)を利用した物質代謝過程の観察などの事例を通じて、生物が化学反応の塊であること、物質が流れて行く川のようなものであることを知った。
また、放射線って身近にあるもんだな、と思った。

社会人になってから:
アシモフの科学エッセイを読んでいてギョッとした。
究極の内部被曝というか、「ゼロ距離での狙撃」の存在を知ったのだ。
生物は放射性同位体と、安定な同位体を区別せずに代謝する。
だから、放射性同位体を細胞内の構成物質として取り込んでいる可能性がある。
そこで、その放射性同位体がいきなり崩壊して放射線をまき散らすことがある。
「ゼロ距離での狙撃」である。
それだけではない。
放射性物質は、崩壊して別の物質に変わる。
例えば、炭素14はベータ崩壊して窒素14になる。
炭素が窒素に変わってしまうので、その炭素を含む有機物は、(ベータ線で焼かれなくても)分解してしまうだろう。
体内に大量に放射性物質が取り込まれれば、そんなことが体中で起こるのである。

……というわけで、放射線による被害を考えるとき、内部被曝を重視すべきだと思うのだが、どうも原子力大好きな人たちは、内部被曝を軽視する傾向にあるように思われる(個人の感想です)。
「福島第一原発周辺の帰宅困難地域の年間放射線量は50ミリシーベルト以上」という基準も空間線量だから、内部被曝についてはまったく考えられていない。
フォールアウトの降る中、屋外で遊んでいた子供が吸い込んだかも知れないホコリ、庭で取れた野菜、そういった「普通の生活」のことは考えられていないのである。

生活者の視点のない「安全宣言」「アンダーコントロール」ってなんなのだ。

さて、『放射能と人体』の後半には、内部被曝について最新の知見も書かれているようだから、じっくり読むとするか。

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2014/01/03

『ジェノサイド』を読んだ

高野和明著『ジェノサイド』(角川文庫で上下2巻)を読んだ。

カバーの説明文には「超弩級エンタテインメント」とか「現代エンタテインメント小説の最高峰」とか書かれているが、エンタテインメントと言って良いのかどうか。
極めて重い問題を突きつけてくる。

かといって、完全に社会派の小説であるわけでもなく、ポリティカルフィクションというわけでもない。
サイエンスフィクションの要素もあるが、ハードSFではない。

主人公は、元米国陸軍特殊部隊の兵士で難病の子供を持つ傭兵・イエーガーと、父親を病気で亡くしたばかりの日本の大学院生・古賀研人。
この二人と、表題であるジェノサイド(大量虐殺、集団殺戮)がどう関わってくるのか……。

本書では、さまざまなジェノサイドが描かれ、あるいは示唆され、あるいは予見される。

アフリカの武装組織による村落襲撃、未知の病原菌の伝播を防ぐための部族殲滅、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)がその他の人類(ホモ・サピエンス・ネアンダーレンシス)に対して行ったかも知れない殺戮、核戦争による人類絶滅……。

襲撃した村落の子供を兵士に仕立てる話などは胸が悪くなるが、現実である。

そのアフリカからイエーガーが救出した幼児の頭をなでながら、研人が言う(下巻p.405)。
「もう安心だよ。ここには戦争はないからね。この国の人たちは、もう戦争はしないと決めたんだ」

……そうであることを望む。

現生人類には、戦争を好み、他者を傷付けたいという病的な欲求があるのだろうか。
それは戦場に送られた者や、指導者に見られるゆがんだ精神によるものなのか。

研人が難病の特効薬の合成に成功したとき、これまでに感じたことのない陶酔感を覚える(下巻p.334)。

これが科学だと研人は悟った。(中略)自然の謎を解くことで、頭がふらふらするほどの幸せを得ていたのだ。
椅子に座り込んだ研人は、多幸感に浸り続ける一方で、科学技術の恐ろしい側面にも気づいた。原子爆弾を開発した科学者たちも、この快感の虜になっていたのだろう。彼らは大勢の人間を殺したい一心で原爆作りに没頭したのではない。アインシュタインの予言が現実化することに、そして人類がそれまでに手にしたことのない莫大なエネルギーを得ることに興奮していたのではないか。未知への挑戦がもたらす陶酔感は、人類社会にとって諸刃の剣だ。

原子力発電所を再稼働したいと考える人の中には、カネのためではなく、「莫大なエネルギー」に魅せられてしまっている科学者・技術者もいるんだろうなぁ、なんてことを考えてしまった。

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2014/01/01

『原発ホワイトアウト』を読んだ

若杉冽著『原発ホワイトアウト』を読んだ。

ふつう、小説を読むときに期待するカタルシスは得られない。

ノンフィクションや、吉村昭の記録文学を読んだときのような重苦しいものが残る。
高村薫の『神の火』の読後感に近いものがある。

まぁ何とも胸くその悪い話ではある。
再稼働の理由は結局カネか?
そのカネの出どころは、ワシ(達)の払っている税金と電気料金なのだけどね。

あんまり胸くそが悪いもんだから、終章に至って「新崎原発」でメルトダウンが進行し始めると、
「だから言わんこっちゃない」
とか
「ざまぁみろ」
とか思いかけてしまう。

いやいやいや、メルトダウンしては困る。
「国益のため」と言いながら既得権益を守ることに腐心する官僚や電力会社幹部によって、この国土が汚染されることは許せない。

さて、以下ネタバレになる。

福島第一原子力発電所は、想定外の津波により全電源を喪失、メルトダウンに至った。
……と言われている(ひょっとすると、想定内の地震によって配管が破断したのかも知れないが、原子炉に近づけないので本当の原因はわからない)。

この物語の中で再稼働した「新崎原発」は、いかなる「想定外」の事態によってメルトダウンに至るのか……。

大晦日の夜、原子力発電所で発電した電気を送り出す送電線の鉄塔が(テロにより)倒壊する。
電力負荷をロスしたことにより、原子炉が緊急停止(スクラム)する。
原子炉が停止しても、核燃料は崩壊熱を放出し続けるから、冷却しなければならない。
しかし、爆弾低気圧による低温のため、非常用ディーゼル発電機が始動できない。
しかも、爆弾低気圧による吹雪のため、非常用電源車の車庫までたどり着けない。
原子力発電所周囲の道路も凍結し、しかも年末年始休暇のため除雪が追いつかない。
周辺住民がてんでに避難を始めたため(例によって避難計画はおざなりだった)、交通網は麻痺。
そのため、原発は孤立し、原子炉冷却の手立てがない……。

……メルトダウンを起こすのに、地震も津波も必要ない、ということか。
……原子力発電所へのテロではなく、送電線へのテロ……現実には、想定し、対策が講じられているのかなぁ。

大晦日に『原発ホワイトアウト』を読んで暗~い気分になって寝て、元日の早朝は強風の音で目覚めた。
幸い、2014年の元旦は、どこの原発もメルトダウンすることなく明けた。

すべての原発が停止しているのだから、まぁ当然か。
もっとも、停止していても、使用済み核燃料がある。
素直に「おめでとう」と言う気分には、やっぱりなれんなぁ。

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2013/12/30

『戦艦武蔵』に描かれた死に方

だいたい、男の子は「戦い」が好きである。
忍者ごっこにしろチャンバラにしろ、ライダーごっこにしろ(何にせよ古いか?)戦闘を模した遊びである。
ゲームだって戦うものばかりだし、スポーツは模擬戦闘だ。

だから中学生くらいまで兵器が大好きだったりするし、戦車や戦闘機にあこがれる。
ワシも中学2年生くらいまで、模型やプラモデルをたくさん作ったものだ。
飛行機のプラモデルを天井からテグスで吊るし、空中戦のシーンにする。
リアルにするために、線香で弾痕を作り、ガーゼで白煙を作る。

だが、自分がその飛行機に乗っていて、被弾し、乗機が白煙を吐いて墜落する、という状況には思い至らない。
それが子供、というものか……。

『加藤隼戦闘隊』あたりから戦記ものを読み始め、子供向けだったが『戦艦武蔵のさいご』を読んだとき、戦争で死ぬのは格好良くないことかも知れない、と、初めて思った。

艦上で爆撃を受けた少年兵が、裂けた腹からこぼれ落ちた腸をかき集めながら「おかあさん」と叫び、やがて動かなくなった……といった描写があったように思う。
もしも自分が兵士となって死ぬような目に遭うとしたら、軍歌にあるように「花と散る」のではなく、自分の腸を見ながら息絶えるのではあるまいか。

そう考えると、お国のためだか何だか知らないが、戦争で死ぬのは真っ平だ、と思うようになったのだ。

吉村昭の『戦艦武蔵』でも、ありとあらゆる死に様が描かれる。

パラオで魚雷攻撃を受けて被弾、浸水した区画で水中聴音機室員7名が戦死する。
呉のドックに戻って排水すると、遺体は「白くふやけてすでにはげしい腐臭を放っていた」(p.253 以下ページ番号は新潮文庫版による)。

レイテ沖海戦では、魚雷攻撃のほか、爆弾による爆撃と機銃掃射を受ける(不沈戦艦は飛行機に負けるのである)。
甲板上には手足をもぎ取られた負傷者が転がる。
「艦内にも点々と戦死者の肉片が四散していた。遺体はそのまま放置され、負傷者が続々と医療室に運びこまれてゆく。医務室の床には血がひろがり、軍医や衛生兵が応急手当をしながら走り廻っている。(p.281)」

やがて武蔵は大きく傾き始める。
「乗組員たちが初めに海へ飛び込みはじめたのは、そそり立った艦尾からであった。が、はるか下方の海面に達するまでに、かれらの口からは悲痛な叫びが起った。かれらのほとんどは、巨大なスクリューに叩きつけられていた。(p.293)」

「艦底の側面から海面までは四、五〇メートルあった。乗組員たちは途中まで側面の上を滑り降りていったが、その側面に厚くこびりついた牡蠣殻でたちまち傷ついた。(p.293)」
船底にはカキやフジツボ、カメノテなどが固着する。その殻の縁は鋭く、刃物のように皮膚を切り裂く。
裸足で磯遊びをしていて、痛みが少ない割に深く切り、驚くほど出血して驚いたことがある。
牡蠣殻で切り傷を負って失血死しても、「名誉の戦死」なのだろうか。

沈没した武蔵のつくる渦に巻き込まれずに済んだ者も、海面に広がる重油に苦しめられる。
救出にやってきた駆逐艦のスクリューに巻き込まれる者もいる。

どうにか命拾いした人たちも、武蔵の沈没が公になることをおそれた海軍中枢部によって、隔離されたり、再び戦場に送られたりした。
マニラから高雄(台湾)に送られる途中、輸送船が潜水艦の魚雷攻撃を受けて海に投げ出された人たちもいた。
「かれらは五時間から十九時間泳ぎつづけたが、漂流中、敵潜水艦に味方艦船から投じられる爆雷の衝撃で内臓破裂を起した者が多く、救助された後にも五十名が死亡、結局生存者は三〇パーセント弱の百二十名に過ぎなかった。(p.301)」

この数少ない生存者のほうに自分が含まれるという自信、ありますか?

子供ならともかく、経験を積んだ大人なら、根拠なく「自分は大丈夫」などとは思えないだろう。
というか、戦争を礼賛する輩は、精神的に子供であるか、あるいは「自分は戦場に出ることはない」と確信している嫌な奴か、そのどちらかではないか、とワシは思うのである。

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