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2024/08/28

『一億年のテレスコープ』を読んだ

台風10号が接近……というか九州の南でノロノロしているせいで、散歩もできない。
もともと20年使ったシステムバスの交換工事のため、今週はカンヅメなのだが。
ということで、本を読む日々。

春暮康一著『一億年のテレスコープ』を読んだ(以下敬称略)。

良質の(センス・オブ・ワンダーを味わえる)ハードSFは貴重である。
しかも生物学的考察がしっかりしている国産の(日本語ネイティブの)ハードSFは希少である。

春暮康一の著作は、『オーラリメーカー』『法治の獣』を読んでいて、読みやすく頭に入りやすい文体には好感をもっている。

ただし本作は、ちょっと凝った構成になっていて、主人公とともに遠くへと旅を続ける本筋と、「遠未来」「遠過去」のエピソードが交錯する。
それらのエピソードの関係に、本筋を読んでいるうちに気づく仕掛けになっている。

儂は Kindle 版を買ったのだが、書籍版のほうが読み返しやすいので良いかもしれない。
読みかけのところに栞か指を挟んでおき、ページをぱらぱらめくって前の方のエピソードを探すのは、物理媒体である本ならではの醍醐味、といえる。

以下、ネタバレを含むので、予備知識や先入観なしに本作を読みたい方は、ご注意いただきたい。


本作(の本筋)は主人公の「現在」の日常からスタートして、 SETI(地球外知性探査)、ファーストコンタクト、宇宙の終焉(?)までを描く。

ざっとこのように書くと、劉慈欣の『三体』『黒暗森林』『死神永生』の三部作を思い浮かべるかもしれないが、まったく違う。
「三体」三部作を読んでいて「あー、なんでそうなっちゃうかなぁ」と絶望的な気分になることが度々あるのに対し(読者を絶望的な気分にさせながら面白く読み進めさせてしまうというので傑作なのだが)、本作にはそのような心配はない。
「宇宙を股にかけた侵略など割に合わないし、誰もわざわざそんなことはしない」という世界(宇宙)だからだ。

そこで、実にさまざまな異星人(地球外知的生命体)が登場し、交流する。

「現在」からスタートして(比喩的な意味で)宇宙の果てまで至る SF といえば、ポール・アンダースンの『タウ・ゼロ』とかアーサー・C・クラーク&フレデリック・ポールの『最終定理』など名作がいろいろある。
しかし『タウ・ゼロ』には異星人が出てこないし(示唆されるが)、『最終定理』は宇宙を股にかけた侵略の話である。

なんていう具合にあれこれ比較してみると楽しいな。

「現在」の日本人の主人公が宇宙の果てまで旅をすることができるのは、脳をスキャンしてネットワークにアップロードする技術が開発された(される)ことによる。
情報化された数百人の人格を宇宙船のコンピュータに搭載して、宇宙を旅するのである。

この設定は、グレッグ・イーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』、アマルガム(融合世界)シリーズで読んだ。
しかし、イーガンの作品中のデジタル化された人格が、複製可能(バックアップ可能)であるのに対し、本作のデジタル人格は複製不能であり、ここがちょっと目新しいところだろう。

脳機能の中に量子的振る舞いをする部分があり、これがいわば複製不能な「魂」に当たる、というわけだ。
義体(ロボットボディ)で活動するときも、その「魂」を収めた量子ハードウェアを搭載する必要があり、その量子ハードウェアが失われることがすなわち「死」となる。

デジタル化した結果、不老であっても不死ではないのである。

さて、異星人(異星の生物)については、『法治の獣』に収められた諸作に登場する生物ほどの特異感……「え、こいつどんな姿をしているの? どうやって生きてるの? 個体間のコミュニケーションは? 生態的地位はどうなってるの?」という戸惑い……は、ない。
オオカミっぽかったり、タコっぽかったり、バッタぽかったり、カラスっぽかったり、ハチっぽかったり……。

しかし、これは作者が「わざと」そうしているのだろう。
異星人の姿や生態を想像しやすくして、物語世界に読者が没入しやすくしているものと拝察する。

『スター・ウォーズ』に「ソラリスの海」みたいな知的生命体が出てこないのと同様と考えればいいかな?

なお本作には、読者にハードSFの知識があることを前提にしていると思われる記述があちこちに見られる。
まぁ、ハードSFとはそういうものだが。

ここでは、覚書を兼ねて、二つの「法則」を記しておく。


クラークの第三法則

(第一法則)
著名な年配の科学者が、かくかくしかじかのことは可能であるといったならば、ほとんどの場合それは正しい。だが、これこれのことは不可能であるといった場合は、誤りであることが非常に多い。

(第二法則)
可能性の限界を知る唯一の方法は、可能の域を超え、不可能の領域まで入ってみることだ。

(第三法則)
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。


ハンロンの剃刀

無能で十分に説明できることに悪意を見出してはならない。

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