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2023/09/10

科学的に安全、とはどういうことか?

「福島第一原発事故に伴う汚染水から放射性核種を取り除いたけれどトリチウムが残っている水」の海洋放出に関して、「科学的に安全なのだから反対するのはおかしい」という意見があるようだ。ただ、どうもそれが「IAEAのお墨付きを得ているのだから安全」、つまり「公的機関が安全と言っているのだから安全」という言説を「科学的に安全」と言い換えているように聞こえる。

「科学的である」ということを「科学者の肩書を持つ人が立派な実験施設とか数学とかを用いて定めたこと」と勘違いしているのではなかろうか。
しかし、公的機関や科学界の権威の言うことが、必ずしも科学的とは限らない。

では、「科学的」とはどういうことなのか。身近な例で考えてみよう。

【問題】モンシロチョウやアシナガバチなど、昆虫の成虫のあし(脚)の数は何本か?

小学校の教科書には「昆虫の成虫のあしの数は6本」と書かれている。
文部科学省の学習指導要領には「昆虫の成虫の体は頭,胸,腹の三つの部分からできていること,頭には目や触角,口があること,胸には3対6本のあしがあり,はねのついているものがあること(中略)などの体の特徴を捉えるようにする」とある。
では、答えは、科学的な正解は「6本」と言ってよいだろうか。

しかし、次の写真を見てほしい。羽化したばかりのツマグロヒョウモンのオスで、チョウの上に羽化して抜け殻となった蛹と、脱皮して抜け殻となった幼虫の表皮が見える(2022年7月28日撮影)

Img_20220728_114318

脚の数は……4本である。

昆虫の脚は6本なのかそうではないのか、科学的に検証してみよう。

まず仮説を立てる。
「昆虫の成虫の脚の数は6本である」
仮説が成り立たなければ、
「昆虫の成虫の脚の数は、6本とは限らない」
ということになる。

次に、この仮説が正しいかどうかを検証する。
すでに、検証用のデータ(観察結果)は、いくつかある。
先程の写真は、「6本ではない」という仮説を反証するデータである。
そして、このブログの他の記事には、「6本である」という仮説を支持するデータにあたる昆虫の写真がたくさんある。セミとかトンボとかキチョウとか……。

風もない穏やかな晩秋の休日、庭の手入れをした。枯れたローズマリーの枝を切っていると、キチョウが飛んできて、ローズマリーの花に止まった。蛹で越冬するアゲハチョウなどと違い、キチョウは成虫で冬越しする。この個体は無事に冬を越せるだろうか。

ここで、「間違っているのはデータかもしれない」と考えてみよう。観察結果、つまりデータが異常なため、仮説が成り立たない場合があるからだ。

この個体だけ、脚が取れてしまったり、発達しなかったりして4本なのだろうか?
そこで、ほかのツマグロヒョウモンについても調べてみると、やはり4本である。
地域や時期や性別が違っても、やはり4本である(2005年9月9日に撮影したメス)。

P9092582

よくよく観察すると、2本の前脚が短く、折りたたまれたようになっている(上の写真の目の後ろの部分)。そのため、脚の基部は6本分あるが、花に留まったり歩いたりするときに用いる脚は4本である。
さらに言えば、ツマグロヒョウモン以外のタテハチョウ類の脚の数も、4本である。

Fh000194 (1989年8月10日に霧ヶ峰で撮影したアカタテハ)

……と儂が書いたからと言って、信用してはいけない。疑うことは科学の第一歩である。できれば読者自身で調査して欲しい。
データ(この場合は写真)を偽ることも可能なのだから、データが正しいかどうかを知るためには、その仮説を主張する本人以外による検証が必要だ。

このように、データや方法(実験観察の機材や手順など)がオープンで、誰でも仮説を検証できることが、「科学的である」ための必要条件である。
超能力や霊能力のような疑似科学が科学的でないのは、信奉者以外の人が検証することを許さないからである(疑う人がいると再現できない、などと言い訳をするのだ)。

じつは、すでにタテハチョウ類の成虫の脚の数が6本ではなく4本だということは、プロの科学者とアマチュアの研究者、教師、小中高生など多くの人々によって確認されている(昆虫学や教育関係の雑誌やサイトで確認できる)。

ここで、もうひとつの仮説が提示できるのだが、気付いただろうか? それは
「タテハチョウ類は成虫の脚が4本なので昆虫ではない」
というものだ。
しかし、脚の数以外の体の構造や生活史などから考えて、タテハチョウは昆虫である、といってほぼ間違いない(100%間違いない、と言わないところが科学的?)。

そこで、結論としては
「昆虫の成虫の脚の数は6本である」
という仮説を棄却する(正しくないと判断する)。

とはいえ、タテハチョウ類を除く大部分の昆虫の成虫の脚の数は6本なので、
「昆虫の成虫の脚の数は6本である」
を改めて、
「昆虫の成虫の脚の数は原則として6本であるが、4本の昆虫もいる」とするあたりが妥当であろう。
文部科学省が学習指導要領の記述を改めるかどうかはわからない。
しかし、子供がタテハチョウ類を見て、「教科書と違う」と言ったとき、教師や保護者が「教科書が違うはずがありません」と言うのはよろしくない(科学的でも、教育的でもない)。
どうする文部科学省。

さて、このようにデータを踏まえ、誤りを認めて仮説(理論)を訂正することは、科学が科学的であるために非常に重要である。
逆に言えば、「学会の権威である私の理論は絶対に正しい。疑ってはならぬ」などと言う科学者がいたとしたら、その人は非科学的で、有害である(老害の場合が多い)。もはや科学者ではなく、カルトの教祖みたいなもんである。

強力な誤り訂正機能をもつことによって、科学のみが世界(宇宙とか自然とか社会とか)の成り立ちや法則を知る手段となり得る。そして誤り訂正機能をもつ科学に基づく社会の仕組み(技術や法律)こそが、より多くの人々の健康や幸福に貢献できるのだと思う。

最初の「科学的に安全」の話に戻す。
「結論ありき」で「科学的に安全」という人は、「その人が科学的思考ができない」ことを宣伝しているようなものだ。

「汚染水」の疑いの残るALPS処理水の海洋放出を「科学的に安全」と言うには何が必要か。
有機結合型トリチウムの生物濃縮や内部被曝、トリチウム以外の放射性核種の残存などのリスクが「ない」ことを立証しなくてはならないだろう。
そのために必要なことは、データをオープンにすることと、懸念を持つ人たちによる検証を受け入れることだ。
東電や政府の過去のやらかしのせいで、データが信用できないことも困ったものだが、じつは「相手を信用できるか」は科学的にはどうでもよいのだ。
立場が異なる人や機関が調査して得たデータのばらつきが誤差の範囲内に収まって初めて、その「データが信用できるもの」となる。

ニュース番組を見ていると、「科学的に安全だということの理解を進める努力が必要」などと言う人がいるが、そういう人には「科学的とはどういうことか」を理解していただきたいものである。
「『科学的に安全』という政府の発表を疑うのはおかしい」と言うのは非科学的であり、疑うほうが科学的なのだから。

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