
散歩のたびに泣きそうになってしまう毎日であるが、それはさておき(写真は2020年10月の香貫山にて。以下の文章とは、まったく関係がない)。
アメリカ国防総省がUFO(未確認飛行物体)を調査しているという(https://www.bbc.com/japanese/59411997)。
もちろん、UFOが異星人の乗り物である可能性は限りなく低い。
レーダーの画像に残された異常な運動をする「物体」は実体ではなく、妨害電波などにより生成されたものなのかもしれない。
もちろん、ペンタゴンは妨害電波の発信元は異星人ではなく、ロシアか中国だと考えているだろう。
異星人が地球にやってくる可能性はあるのか?
そしてその異星人は友好的だろうか?敵対的だろうか?
映画『コンタクト』では、地球人が発している電波(意図的に宇宙に向けたものではなく、漏れ出たラジオやテレビ放送の電波)を聞いた異星人が、信号を送り返してくる。その信号を受信するシーンにはドキドキするし、受信した内容にはビックリするのだが、ここには書かない。映画をご覧いただきたい。
もちろん、この映画の原作者はカール・セーガンだから、異星人は善意の存在である。
だが、異星人が存在するとして、善意の存在であるとは限らないのではないか。
SF小説『三体』では、宇宙に向けてメッセージを発信したことから侵略が始まってしまう。その侵略の方法がまた奇想天外なのだが、ここには書かない。小説をお読みいただきたい。
おそらく「UFO=空飛ぶ円盤」と思っている人は、こう考えるのではないか。
恒星間の深淵を超えてやってくる異星人は、地球人よりもはるかに技術的に進んでいるのだから、きっと倫理的にも高潔で、友好的なはずだ、と。
だけどねぇ。
環境汚染や資源の枯渇、地球温暖化、パンデミックなどの危機に対して、世界中の国々が結束して立ち向かわなければならない21世紀なのにねぇ。
曲がりなりにも「大国」とされる国が、国連の常任理事国が、隣国に侵略するといった、信じられないことをやっちゃうのだからねぇ。
核兵器の使用を脅し文句にしたり、化石燃料の供給停止を人質代わりにしたりして。
なんだかなぁ。
科学技術が「進歩」しても、脳の構造は狩猟採集生活のころから「進化」しないわけだから、進んだ文明だからといって、高潔とは限らないよねぇ。
異星人が存在しているとしたら、そしてその精神構造に少しでも地球人に似たところがあるとしたら、いくら技術的に進んでいても、地球侵略はあり得るかもなぁ。
もちろん、生命の発生そのものが稀な現象なら、異星人による地球侵略の可能性はまず、ない。
小惑星探査機「はやぶさ2」が持ち帰った「りゅうぐう」のサンプルからアミノ酸が見つかった(https://curation.isas.jaxa.jp/topics/22-06-10.html)。
原始地球上ではアミノ酸の生成が難しいと考えられることから、地球の生命の起源は小惑星であるという可能性がある。
このことから、宇宙には生命が溢れていると思ってよいのだろうか?
アミノ酸が存在するだけでは、自己増殖する「生命」にはならない。DNAやRNAのような遺伝物質と出会うことが必要だ。
ひょっとしたら、冷えつつある原始地球上で生成されたRNAと、小惑星からもたらされたアミノ酸が結びついて、最初の生命が誕生したのかもしれない。
そうすると、たまたま地球上にRNAが存在する時期に、たまたま小惑星が落ちてきて、たまたま焼け残ったアミノ酸が地上まで到達し、たまたまRNAとアミノ酸が結びついて、たまたま生命が誕生した、ということになりはしないか?
その「たまたま」が起こる確率はどれくらいだろう?
ひょっとしたら、ひょっとして、この宇宙において、生命は稀なものなのだろうか?
生命が稀なものだとすると、「異星人の侵略という人類の存立危機事態に備えるため、地球人の間で争っている場合ではない、協力しなくては」という国際社会の動きは期待できない(『三体』では国連が活躍するのだが、その活躍の仕方がまた奇想天外である)。
まぁ、地球温暖化やパンデミックを前にして、協力ではなく分断を選ぶような人類だから、異星人がいようがいまいが関係ないか。
生命が稀なものだとすると、国家間の争いによって地球環境を悪化させることなどもってのほか、と思うんだけどなぁ。