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2021/05/12

生物の生態や進化に関する非目的論的思考について

昨日載せそこなった「緑」の写真(散歩の途中の近所の公園の植え込み)。

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緑色に見える植物が、緑色の光を使っていないことをご存知だろうか。

植物の葉は赤や青の光を吸収し、緑色の光を反射するので、緑色に見える。

赤や青の光を吸収して光合成に利用して、余分な緑の光を通過させるので、木漏れ日は緑色だ。

より効率的に光合成する「ため」には、緑色の光も使ったほうがよさそうだが、そうなっていない。

たまたま数億年前、植物が光合成に使い始めた色素が葉緑素(クロロフィル)で、今日までとくに不都合がなかったから、あるいは他の感光性色素に切り替えるコストが高いから、こうなっているのだ。

生物の生態や進化について考えるとき、「~のため」という目的論的思考は排除しなくてはならない。

生物の生き方や進化に目的や方向性はなく、生物の世界は(というか宇宙は?)偶然と確率が支配しているからだ。

だから最近テレビの報道番組などで聞く「ウイルスは宿主を殺すと生存できないので、変異して弱毒化する」という言説には違和感がある。

ウイルスが変異によって弱毒化するか強毒化するかは、わからない。感染力が強くなる変異株が生き残るのは確実だが。

感染力を増した変異株が強毒化して、宿主(人類)ともども絶滅してしまう可能性もある。

数年後か数十年後か、運よく弱毒化したウイルスだけが蔓延した島とか奥地とかに生き残った人類がいたとしたら、「SARS-CoV-2も変異して弱毒化したね」と言うだろう。

要するに、ウイルスは長いタイムスパンを経て、「結果として」弱毒化するのだ。パンデミックの最中にある現在、急速な弱毒化は期待できない。

ウイルスは「弱毒化しよう」などと思って生きているわけではないのだから。

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