『「原発事故報告書」の真実とウソ』を読んだ
いやぁ、怒ってるなぁ。
日経新聞の元科学技術部次長の著者は、科学ジャーナリズムに長くかかわった者として、都合の良いほうに誘導しようとする「報告」は我慢ならないのだろう。
そして、津波で被害を受けた上に原発の避難地区にもなっている南相馬の出身ゆえ、子供のころの自分を育んでくれた山河を奪った「罪」を見逃せないのだろう。
さて、「豆腐の上のおから原発」「何でも官邸団」と、いろいろ手厳しいが、読者としてはちょっと痛快である。
著者:塩谷喜雄
出版社:文藝春秋(文春新書)
四つの事故報告書の徹底検証
本書で比較検証された四つの報告書のうち、ワシが読んだのは、『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』、いわゆる民間事故調報告書だけである(科学的逍遙日誌「民間事故調報告書を読み終えた」参照)。
国会事故調の報告書と政府事故調の報告書は Web で公開されているが、本屋で見たときの分厚さと、結局はメルトダウンした原子炉に入れないのだから、真の事故原因は解明されていないという残念な感じから、読まずにいた。
そこで、本書を買って読んだのだ。 事故原因の解明を望んだわけではなく、それよりもなぜ福島第二原発はメルトダウンを回避できたのか、という点などに関心があったからである。
さて、著者は四つの事故調を次のように格付けしている。
- 国会事故調(3ツ星半)――政治ショーの是非
- 政府事故調(3ツ星)――責任追及を目的としないことの是非
- 民間事故調(3ツ星)――アメリカンな人間ドラマ、事故は官邸で起きたのか?
- 東電事故調(黒星1ツ)――責任逃れに終始、「ぼくちっともわるくないもん」
満点は5ツ星である。もちろん、東電はマイナス評価である。
反省点や落ち度がなかったかどうかを点検するのではなく、合理的に責任を逃れる論理を、ひたすら追い求めると、この胸の悪くなる文書に到達する。
学会や規制当局から指摘されていた、耐震強化や津波対策の遅れについては、時間を限って対策を指示されていなかったことや、津波リスクの評価は学会の「定説」にはなっていなかったことなどを挙げて、責任を回避している。
事業者の自主性の尊重という、日本の原子力規制制度のあいまいさを最大限に利用して、言い逃れを重ねる狡猾と厚顔には呆れ果てるしかない。脱原発や卒原発の人はもとより、原発推進、あるいは核保有論者も、この文章に一度触れ、不実の程度を知る必要がある。(p.32)
すすんで見たくはないが見なければはじまらないという不快な重圧感ゆえに、東電事故調の報告は、星5ツ全部を差し引いた上に、負の価値、黒星1個を献上する。
著者の怒り
著者は、怒ってる。
日経新聞の元科学技術部次長の著者は、科学ジャーナリズムに長くかかわった者として、自分たちの都合の良いほうに誘導しようとする「報告」は我慢ならないのだろう。
そして、津波で被害を受けた上に原発の避難地区にもなっている南相馬の出身ゆえ、子供のころの自分を育んでくれた山河を奪った「罪」を見逃せないのだろう。
ひょっとすると、3.11を目の当たりにするまで「核燃料サイクルは撤退すべきだと考えていた。一方で、軽水炉の利用については、経験が蓄積されている分、当面はエネルギー源として認めるべきだと思っていた」という著者自身にも、怒りの矛先は向けられているのかも知れない。
「豆腐の上のおから原発」(p.196)、「何でも官邸団」(p.142)、「無能幹部互助会」(p.219)と、いろいろ手厳しいが、読者としてはちょっと痛快である。
「何でも官邸団」は官邸が現場に介入し過ぎた(と言われている)ことにちなむが、東電本店や原子力安全保安院や原子力安全委員会や官僚が過酷事故に際して「役立たず」だったことの結果でもある。
福島第一・第二原子力発電所からのいわゆる「全員撤退問題」についても、筆者は証拠が足りないとして、こう断じている。
幼稚な言い訳(引用者注:「社員のプライバシーを守るため」と称して修正を加えたりしていること。)を考える前に、責任企業の当然の社会的義務として、すべてのビデオを、無修正・無条件で公開すべきである。(p.141)
事故対応にもたついて、事態の悪化を隠蔽し続け、本当に危なくなったら、住民の安全などそっちのけで、身内だけをそっと退避させる。そんな要員退避計画を当事者企業から持ちかけられて、「はいそうですか」とうなずく首相がいたらお目にかかりたい。(p.172)
福島第二はなぜメルトダウンを免れたのか
震源からの距離が同じくらいで、揺れの程度も津波の大きさも同様であったはずの福島第二原子力発電所では、なぜメルトダウンは起こらなかったのか?
実際に原子炉が受けた地震や津波の程度に差があったのではないか(第一の計器が全壊しているので判然としないが)、福島第一の原子炉の老朽化が激しかったことも原因では……。
しかし、政府事故調の報告から、驚くべき「実態」が明らかになる。
高圧注水系の損傷を恐れて、代替注水の準備をせずに、弁を閉じてしまい、冷却機能をすべて失う図である。第二原発ではそれが違っていた。(p.132)
次の手段の有効性を確認する前には、現在稼動中のシステムを止めない、というのは、福島第二の運転員によれば「常識」だという。外部電源が生きていた福島第二と、全電源を喪失していた福島第一との「余裕」の違いはあるだろうが、危機にあってこそ常識は不可欠なのかもしれない。
この問題を突きとめたのは、ひたすら愚直な政府事故調のお手柄といっていい。
ICトラブルと代替注水問題で見えてきたことは、日本の原子力開発が、チェルノブイリはおろかスリーマイル島原発(TMI)事故すら、教訓として全く学んでいなかったことである。東電を除く3つの事故調とも、この肝心要のポイントに全く言及していない。(p.133)
全交流電源の喪失を想定したマニュアルも、福島第一にはあったらしい。(中略)
普通に制御盤をにらんでいれば、ほとんどの機器は1時間で復旧するという想定で、超楽観的な内容だったという。電気を売っている電力会社にとって、電源の復旧などお茶の子さいさいだという意識があったとすれば、今回の過酷事故は、東電の自滅、オウンゴールだと言わざるを得ない。(p.134)
原発のリスク
集中立地と老朽原発の稼動というリスクは、日本の原発が抱える抜き差しならない「構造」である。地域独占という経営形態の存続に不可欠の要件でもある。そこに経済合理性はかけらもない。
その構造がもたらした当然の結末として、福島第一の過酷事故が発生したのだとすると、日本社会は原発ゼロを目指すしか選択肢はないことになる。そうではないことをきちんと証明できれば、原発は抜本的な安全策を施して経済合理性を担保したうえで、電源の選択肢の一つとして今後も残ることになる。
このキーポイントを事故調が集中的に解析していないことは、不可解というしかない。国の政策選択にとって最も重要な問題を避けては、事故調の名がすたる。(p.183)
驚愕の過酷事故発生頻度
それにしてもまぁ、計算方法によっては原発の過酷事故の発生頻度が「10年に1回」となってしまうという報告が原子力委員会から出ていたとは(「原子力発電所の事故リスクコストの試算」p.16)。
どうしてマスコミは、この件でもっと騒がなかったのだろう?
ひょっとして、事故発生頻度の「2.0✕10-3/炉年」という書き方の意味がわからなかったとか?
これは科学技術的な標準的な表記で、2.0の1000分の1のことである。 言い換えれば、0.002、あるいは 0.2%、あるいは 500分の1である。
1つの原子炉が1年のうちに過酷事故を起こす確率が 0.2% という意味である。
これでもわかりにくいので、著者がわかりやすく説明している。
日本の原発50基(福島第一の1~4号機は廃炉になるため除外)が全部再稼働すれば、日本全体での事故発生頻度は、500分の1に50を掛けて、10分の1になる。これから10年に1回は、放射性物質が大量に撒き散らされる過酷事故が、日本で発生するということだ。(p.189)
| 固定リンク
コメント