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2013/01/29

その話はファンタジーではないのか?

例によって、妙な思い付きから始まって、しまいには腹を立てて終わる。

前々回からの海の話つながりなのかどうなのか……。
海賊王を目指す少年ルフィと仲間たちの冒険を描くマンガ『ワンピース』には、食べると異能力を身につけることができる「悪魔の実」というモノが出てくる。
ルフィは「ゴムゴムの実」を食べて、体が自在に伸び縮みするゴム人間になった……という具合だ。
仲間のチョッパーはトナカイなのだが、「ヒトヒトの実」を食べたので人間に変身できる。
このように、動物が他の動物に変身できる実があるのだ。
ところが、その能力が活きない場合もあるのではないか、と考えた。
クジラに変身できる悪魔の実があったとしても、役に立たないだろう。
悪魔の実の能力者は、異能力を得ることと引き替えに、泳げなくなり、海水に浸るだけで消耗するという設定なのだから。
海の動物に変身するような悪魔の実は存在しないのだろうか?

ウサギに変身できる実をキツネが食べたとしたらどうか?
キツネには何の利益もなく、むしろ仲間の餌食になりかねないから、絶対に変身しないように努力することになるだろうか。

そもそも動物の能力を拡張(?)することで、悪魔の実にはどういう利点があるのだろうか。
進化論的に可能かどうか、なんてことは、考えるだけ無駄かなぁ。

……という具合で、ファンタジーに生態学を持ち込むと、とたんに妙なことになる。
ファンタジーと生態学は相性が悪いのである(ここでは、生理生態学や生態系生態学だけでなく、進化生態学などを含む広義の生態学を考えることにする)。

逆に、生態学との整合性を元に、その話がファンタジーかどうかを判断できるのではないか?

じつは、物理化学は判断基準にはしにくいのだ。
「じゅうぶんに発達した科学技術は魔法と区別ができない」というクラークの第三法則が働くからだ。

「空を飛びたい」とか「遠くの人と会いたい、話したい」とか「過去の悪行を映像で示したい」とかいった、昔の人のファンタジックな想像は、科学技術によって実現できているからね。
どんなファンタジーも、物理科学的な現象については実現できる可能性がある。

しかし、生物と環境の関係科学であり、偶然と歴史に左右される生態学は、ファンタジックな妄想に冷水を浴びせるのである。

さて、
「ファンタジーならば生態学と相性が悪い」
を逆にして、
「ファンタジーでないならば生態学と相性が良い」
としても、これは真ではない。

ひっくり返して
「生態学と相性が悪ければファンタジーである」
とするのも、じつは真ではない。

さらにひっくり返して、
「生態学と相性が良ければファンタジーではない」
とする「対偶」が真になる。

だから、生態学と相性が悪いからといってファンタジーだと断ずることはできないが、「ファンタジーの疑いあり」くらいは言っても良いだろう。

ということで、「低レベルの放射線ならば健康によい」とか「放射性物質を含む汚染水は海に放出すれば薄まる」とかいった言説は、生態学と相性が悪いのでファンタジーの疑いがある、とワシは思うのだ。

そういうファンタジーもどきを口にする「専門家」の言うことなど、到底信用できないよねぇ。

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2013/01/24

シイタケ養殖?

昨日の話からなんとなく続く。
四半世紀以上の昔、ワシが受験した「国立大学一期校」は、東京水産大学水産学部増殖学科だった。
当時、国立大学の入試には一期と二期があり、計2校受けることができたのだ。
ちなみに、当時はセンター試験もその前の共通一次もなく、大学入試は一発勝負だった。

それはさておき。
増殖(水産増殖)とは、生物の繁殖率や生存率を高め、収穫量を増やすことである。
当然、環境保全の考え方も含まれるため、そのあたりに興味があったのだ。

ちなみに(2回目)、最初(卵)から最後(収穫物)まで個人や団体が所有権を明らかにできる場合を「養殖」という。
卵から少し育てて海や川に放し、成長した魚などを収穫する場合は「栽培漁業」などと呼ばれることもある。

ふつう「栽培」は植物に使う言葉なので違和感があるが、要するに「養殖」と区別するための便利な使い方ということだ。

そこで思い付いたのだが、厳密にいうと「シイタケ栽培」というのは変である。
なぜなら、シイタケは植物ではないからだ。

シイタケを含むキノコや、カビなどの「菌類」は、生物学上の分類は植物ではない。
光合成による物質生産を行わず、植物や動物から栄養分を奪うので、生理生態学的には動物に近い。

このように、シイタケは植物じゃなくて、むしろ動物に近いのだから、「栽培」じゃなくて「養殖」というべきではないか?

「シイタケ養殖」
ホダ木の並ぶ「シイタケ養殖場」
……やっぱり、変な感じだなぁ。

ちなみに(3回目)、どういうわけか、キノコはセシウムをため込みやすいのだそうだ。
一昨年は、福島第一原子力発電所から遠く離れた伊豆の山中でも、「シイタケ養殖場」で収穫されたシイタケから、ウランの核分裂によって生成される放射性セシウムが検出された。

環境中に放出された放射性同位元素の影響について、ヒト(動物の一種)はどれほどの知見を持っているのだろうか、などと毎日考えて、疲れて寝てしまうのだった。

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2013/01/23

輝けるもの

ちょうど散歩の時間に当たったため、録画しておいたNHKスペシャル「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」を、ようやく先週末に観た。

興奮した。
そういえばワシは四半世紀以上前に、海の生物にも興味があって、東京水産大を受験したのだった(数学の出来が悪くて不合格だったが)。
植物や陸上の動物のほかに、海中の微細な生物にも興味があったのだ。

東京水産大(現在の東京海洋大学)に受験前に下見に行ったとき、キャンパスに「でん」と展示されていたセミクジラの骨格に驚いた。
長さ20メートル弱、この骨に肉が付いていて、生きて動いていたのだ、と考えたとき、この生命を育む海というのはすげえなぁ、と感嘆したのだった。

全長がクジラに匹敵するほどの巨大なイカがダイオウイカである。
深海でマッコウクジラと死闘を繰り広げ、クジラの頭部に吸盤の痕を残す、海の怪物。

伝説化した目撃例や、海岸に打ち上げられた死体としてしか知られていなかった巨大イカを、初めて潜水艇から鮮明な映像で記録したのだそうだ。

さて、その潜水艇がまた、SF映画『アビス』からそのまま持ってきたかのような、球形で透明なコックピットの、じつに「クール」なデザインである。
潜水艇といったら、小さな窓から覗き見るという印象だったが、まったく違う。
搭乗員は鉄の球に閉じ込められるのではなく、海に包み込まれる感じになるのだろうか。

800メートルの深海で撮影された、輝く巨大なダイオウイカを観ながら、改めて、海はすごいな、思った。
こんなものが棲んでいるのだ。海には。

同時に、その海に放射性物質を含む汚染水を流してしまったことを思い出して腹が立ったりもした。
もちろん、ワシが東京水産大を受験しようと思っていたころ、すでに海は核実験に伴う大量の放射性物質で汚染されていたのだが。

潜水艇の照明を浴びて、イカがゆっくりとまばたきしていた。
イカはその巨大な目と巨大な脳で、何を見て、何を考えているのか。

ちなみに、イカやタコの目は、ヒトよりも設計の良い目である。
ヒトを含むセキツイ動物の目には盲点があるが、イカやタコの目には盲点がない。
盲点は、セキツイ動物の祖先の目の設計をそのまま踏襲したために、「まぁいいか」という感じで放置されてきた欠陥といえる。
インテリジェントな設計者なら、こんな欠陥を放置しないだろう。
ところが、進化というものは、インテリジェンス(知性)とは無関係な、偶然と運の産物なのだ。

深海という過酷な環境下で磨かれ、幸運にも生き残ってきた生物たち。
その生物たちの食物連鎖の上から2番目に位置するのがダイオウイカだ。

もう一つ思ったことがある。
アーサー・C.クラークに見せたかったなぁ。
『海底牧場』その他で、潜水艇が遭遇する何度もダイオウイカの姿を描いていたからね。

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2013/01/21

銃弾を使う聖戦などニセモノだろ

アルジェリアでプラント建設に携わっていた日本企業の社員が、テロリストに殺害されたらしい。
サラリーマンとして働いていて、いきなり暴力にさらされるとは。
本人はもちろん、家族は無念でたまらないだろう。

それにつけても、宗教の名を借りたテロは腹立たしい。

以前、「9.11に思うこと」(2002/09/10)や「「神」の名による戦争?」(2003/03/15)にも書いたが、テロリストや大国の指導者の使う「聖戦」という言葉のなんと胡散臭いこと。

聖なる戦いなら、銃弾とか爆弾とか使うなよ、と言いたい。
聖なる戦いなら、祈りだけで正義を遂行してみろよ、と言いたい。

それができない理由は、なんだろうねぇ。

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2013/01/17

18年と2年

阪神淡路大震災から18年。
東日本大震災から2年弱。

阪神淡路大震災から2年後、仕事で神戸に行った。
空き地が目立ち、アスファルトの路面にひび割れが残ったりしていたが、都市生活は常態に戻っていたように思う。

東日本大震災から2年が経とうとしているが、「復興」からは程遠い状況だという話を聞く。
生まれ故郷に帰れない人たち、帰る家を失った人たちは、いまどれくらい居るのだろうか。

さて、阪神淡路大震災をもたらした兵庫県南部地震は、それ以前の地震学の常識を覆すものだった。
関西であれほど巨大な直下型地震が起こるとは、予測されていなかったのだ。

そして、東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震も、それ以前の地震学の常識を覆すものだった。
東北沖を震源とする海底地震が、あれほど大規模に、連鎖的に発生し、あれほどの津波被害をもたらすことは、予測されていなかったのだ。

その一方、来るぞ来るぞと警告され続け、予知可能とされていた東海地震はどうなってしまったのか?
東海・東南海・南海連動地震が起こるのではないか、予知や事前の警報発令など無理ではないか、という話すら出ている。

ここ18年の間に、地震学・地質学の常識は書き換えられてばかりいるのではないか。
実際、30年前の地質学の本を引っ張り出してみると、プレートテクトニクスは仮説だし、断層の形成や地震発生のメカニズムの説明も、最近の教科書から見ると、えらく古臭い。

造山運動とか地向斜とか、もう死語なのではないか?
プレート運動に伴う付加体の考え方など、ワシが学生のころにはなかった仮説だから、もう一度勉強しなおさなくてはならないなぁ、と思っている。

さて、原子力発電所の地下や近辺から、次々と活断層(あるいは、その疑いがある地質構造)が見つかっている。
あるいは、再検証の結果、活断層であると判断されている。

何十年も前の検査、何十年も前の「安全神話」を元に「安全だ」と判断されたものなど、どうして信用できるだろうか。

常に検証すること。
現場から学ぶこと。
自然現象を観察すること。

科学の基本を忘れて、科学技術など成り立つはずがないではないか。

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2013/01/15

山の見える暮らしは人を山から遠ざけるか

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2013年1月15日、朝起きると、富士山はもちろんのこと、愛鷹山も箱根も伊豆も、雪に覆われて真っ白になっていた。
首都圏を大混乱に陥れた爆弾低気圧の置き土産である。

もうちょっと若いころは、こういう景色を見ると矢も盾もたまらなくなって、勤めを休んで山へ行ってしまったりしたもんである。
そして、こんなところ↓で風にビュービュー吹かれたり、スキーの板を新雪に取られて途方に暮れたりしたのだった。

丹沢・冬の稜線

しかしワシもトシをとったので、雪の山はいいよなぁ、などと思いながらも、山を眺めてから、大人しくデスクワークに戻る。

そういえば、山を間近に眺められる環境で暮らしている今のほうが、神奈川や千葉に住んでいるときよりも山へ行く回数が減っている。
その原因は、トシをとったことや子供たちが大きくなったことや仕事をサボると後で辛い(挽回するのに時間がかかる)ことだけだろうか。

案外、山を間近に眺められる環境で暮らしていると、それだけで少しばかり満足してしまうのではないか。
つまりハングリーでなくなっているのではないか。

千葉に住んでいるときになど、見える山といったら筑波山くらいだったので、休日ともなると丹沢や足尾、奥武蔵・秩父・甲州・信州等々、アチコチの山に出掛けていた。
アプローチに時間がかかる山には行かなかったので、2000メートルくらいまでの低山ばっかりだったが。

今はそんなハングリー精神?はなくなってしまったが、時折猛烈に、落ち葉を踏んで延々と歩いたり、沢のほとりで焚き火をしたくなったりするのだ。

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2013/01/11

2020年、稼働中の原発をゼロに!

これまでワシはオリンピックに関して、「べつに東京でやる必要はないんじゃないの? もっと必要とする国や地域があるんだったら譲れば?」と思っていた。

だが、昨日の記者会見の報道を見て、考えを変えた。
是非、東京を中心に、東日本で開催すべきだ。

記者会見では、外国の記者が「東京は安全なのか?」と問うていた。
東日本に降り注いだ、福島第一原子力発電所からの放射性物質を気にしているのだ。

もちろん、今のところは、東京は安全だ。
しかし、2020年になっても安全かどうかは、わからない。

またぞろ、東日本各所の原子炉を再稼働させたり、新設したりすれば、危険は増す。

世界中の人に安心して訪れてもらえるようにするため、原子炉をすべて停止し、廃炉に向けて進もうではないか。
そのことがあって初めて、オリンピック招致の話ができるのではないか?

世界中の人が安心して訪れることができる国は、その国にすむ人々にとっても、安心して住める国であるはずだから。

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2013/01/10

腹の立つ理由の一つは自分の不甲斐なさだ

昨日「ブルーシート」の話を書いた。
このところ毎日、新聞記事で読むのは手抜き除染の話だ。

2002年に東北をキャンプして回った。
福島ではあいにくの悪天で、山や川で遊ぶことはできなかった。
その山や川も、放射性物質で汚染されてしまった。

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福島第一原子力発電所の事故により放出された放射性物質について考えるとき、なぜこんなに腹が立つのだろうと考えた。

もちろん、以前から疑義を唱えていたとおり、ひとたび事故が起これば取り返しがつかないことが証明されてしまったことが第一である。

第二は、まだまだ終息はもちろん収束もしていないのに、「津波さえ防げば大丈夫」的な安全神話が復活しそうな風潮があることだ。
1号機から3号機まで、今も冷却を続けなければふたたび臨界を起こしかねない状態にあり、冷却に使った汚染水はたまり続けて捨て場所もない。
4号機の使用済み燃料プールはそのままだと再び大きな地震があれば水が抜けるおそれがあり、使用済み燃料棒を抜く方法を検討中だという。
抜いた燃料棒はどこに保管するのか?……等々、ぜんぜん収束していない。

第三は、手抜き除染の報道に接しても何もできないことだ。
道のない、足場の悪い山の斜面を歩くのは慣れているから、山の除染を手伝うボランティアができないだろうかと考えていた。
もちろん、ボランティアはゼネコンの下請けと違うから、手抜き除染なんてことはないだろう。

だが恐らく、山へ入りまわりの木々すべて、林床の落ち葉すべてから放射性物質を取り除くなんてことができるのか、と無力感にとらわれるだろうなぁ。
でも、その無力感と闘わなければ、この国の山河を、海を守ることはできない。

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もう一昨年になってしまったが、2011年11月に足尾の名もない山頂からあたりを眺めたときに感じた無力感を思い出す(「環境を蝕むもの」参照)。

そして、昨年は体調を崩して足尾にも行けず仕舞い。
体のあちこちが痺れ、痛み、お尻も不自由だ。

もはや山で作業することなどできないのではないか。
そんな自分の不甲斐なさもあり、役に立たない自分に腹を立てているのだ。

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2013/01/09

ブルー・ブルーシート

昨年末のこと。
カミさんの叔母が義父母宅を訪れていたとき、近所の学校の校庭にブルーシートで覆われたところがあるのを見てドキっとしたという話を聞いた。

「まさか静岡の、こんなところまで」と思ったのだそうだ。

叔母は福島市に住んでいる。
叔母の家のあたりでは、住宅の庭や空き地など、あちこちにブルーシートに覆われた塊があるのだそうだ。

除染作業によって集められた汚染土や植栽である。
各戸で保管することが求められているので、それこそ、あちこちにあるのだ。

そこで、遠く離れた静岡まで来て、ブルーシートを目にして「まさか、ここまで放射性物質が飛散してきたのか」と思ってしまったのだ。
その校庭のブルーシートは、工事機材か何かを覆っていたものであったようだが。

福島第一原子力発電所の事故から、あと2ヶ月で2年経つ。

もう2年と思うか、まだ2年と思うか。
被災地では、復興という言葉は虚しく響いているのか。

……であるにもかかわらず、TVなどでもう過去のことであるかのような言動を見るとウンザリする。

まさか、大地震はしばらく来ない、などと思っていないだろうね?
むしろ歴史的には、大地震は連鎖したり、大噴火を誘発したりする可能性が高いのに?

津波さえ防げれば、福島第一原子力発電所のような事故は起きないと、本当に思っているのか?
最初の地震で、すでに原子炉が損傷していた疑いがある。
……だが、それを確認できるまで、ワシは生きていないかも知れない。
メルトダウンした原子炉の中に、人が調査に入れるようになるまで何十年かかるのだろう?

昨年3月に「腹が立って、タイトルが思いつかないや」に書いたが、4号機の使用済み燃料プールの水がなくならなかったのは幸運な「偶然」であった。
たくさんの人々を不幸な状況に陥れた事故に幸運という言葉を用いるのは不適切かも知れないが、その幸運がなければ、首都圏はノーマンズ・ランドになっていたということを忘れてしまったように見える人を見ると、ガッカリする。
「次」の地震でも、同じ偶然が助けてくれるとは、ワシにはとうてい思えないのだが。

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2013/01/07

謹賀新年/非戦反核

今日から出社して仕事を開始。

「本年もよろしくお願いします」の挨拶を何回したか。

新年といっても、実際に何かが新しくなったわけでもなく、仕事は「昨年」同様に連綿と続く。

だが、世の中が変なほうへ行かないようにスローガンを示しておく必要もあるかもなぁ、と思って年賀状に記しておいた。

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非戦

戦争に依らずして紛争を解決することこそ、文明の証であろう。

「反戦」でも良いのだけど、なんとなく、声高に叫ぶよりも口を結んで意思を示したいと言うか、そういう感じなのである。

反核

「非核」というと、非核三原則に代表される「核兵器を持たない・使わない」ことに限定されそうな気がして、「反核」とした。

核兵器だけでなく、「核の平和利用」についても「基本的に反対」と言いたい。

核兵器だけでなく、原子力発電のような、大気圏内、生態系内での大規模な核分裂反応にも反対の意を示す。

だが、「核と人類は共存できない」とは思っていない(個人的な感想です)。

非破壊検査や医療などに放射線を用いることまでは否定しない。
あくまで、制御不能となったときに取り返しのつかない事態に陥るような大規模な核分裂反応に反対なのだ。

大気圏外なら、もともと放射線の嵐の荒れ狂う環境である。
閉鎖的な生態系(宇宙船とかスペースコロニーとか)と切り離された環境での核の使用は可能かも知れない。

大規模な核分裂反応を研究・応用したい人は、まず安価な宇宙旅行を実現させてはどうか。
宇宙エレベーターを作るとか。
宇宙エレベーターのほうが、核燃料サイクルよりも現実的かもよ。

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2013/01/05

緑のカーテンの話を追加した

『科学的逍遙』(現在終了)に緑のカーテンの話を追加した。

なぜ今ごろ緑のカーテンの話なのかというと昨日、実家に年始の挨拶に行って、緑のカーテンに「青いスイートピー」を使ったという話をしたからだ。
そのとき、母親に写真を見せようとしたら、Webに載せていなかったことに気づいたのだ。

そこで慌てて写真をリサイズし、アップロードして記事を書いた。

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さて、本当は今日は仕事始めだったのだが、計画的に休んだ。
土曜日に出社して1日休み、そこから本格的に仕事を始めるより、じっくり休んでからバリバリ働いた方が良いだろうという判断をしたのだ。
それに、どうも仕事始めの儀とかそういったセレモニーが苦手で、自分のペースで仕事を始めたいのである。

いやあ、それにしても、明後日からやらなくちゃならないことがいっぱいあって嫌だなあ。
明日一日はボンヤリ過ごすかなぁ。

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2013/01/02

新年からこんな話題でスマン

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庭のヒメシャラが紅葉の状態のまま年を越した。
たぶん、秋にチャドクガに食害されて一度丸裸になり、それから「新緑」を展開して挽回したので、冬越しの作業が遅れたのだろう。

(参考)
科学的逍遙日誌「出勤前にチャドクガを虐殺した

やれやれ、新年から食害や虐殺の話か、と思った方、主題はそっち方面ではありません。

年末までにたまっていたネタをマンガにしたのだが、そのタイトルが「肛門戦記」。
ほんとにもう、新年から肛門や雲古の話ですみません。

肛門戦記(1)

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肛門戦記(2)

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肛門戦記(3)

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