小松左京死去
2007年に『SF魂』を読んだとき、こういう自伝みたいなもの書くと、作家は死期が近いんだよなぁ、と思った。
『日本沈没』の作者が、東日本大震災の年に没するとは。
日本沈没後のエピソードが1966年のSF長編『果てしなき流れの果てに』に出てくる。
国土も国家も消滅してしまった民族が遠く離れた惑星の開拓民として旅立つ、未来の光景である。
『日本沈没』は1973年の作品だから、その何年も前から日本列島を海に沈めて日本人すべてを難民にする構想があったわけだ。
2011年3月11日以後、地震大国である日本では、列島が沈むようなことがなくても、損壊した原子力発電所から放出される放射性物質によってノーマンズ・ランドと化すおそれがあることが明らかとなった。
SFは荒唐無稽な夢物語ではなく、可能性を示し、想像力を持つこと、考え続けることを読者に要求する。
さて、『果てしなき流れの果てに』には、宇宙や時間の流れに関する壮大な視座と日常の風景とが混在している。
小松左京の作品の中では、そういう、壮大なスケールの出来事に対峙しながらも、日常の小さな幸福感を大切に守ろうとする人々が描かれているものが好きだ。
デビュー作の「地には平和を」や「戦争はなかった」など、軍隊や支配者への反発を描いた作品が多いのは、戦中・戦後を生き抜いたからだろう。
その一方、『日本沈没』や『首都消失』では、政治家や官僚がとても立派に描かれている。
これは、そうあって欲しいという願望なのだろうか?
映画がさんざんに酷評された『さよならジュピター』だが、原作の雰囲気は好きだった。
宇宙では、荒くれ者(のように見える人)も知識と技量を持つ技術者、という世界観とかね。
そういえば、『さよならジュピター』にも、過激な自然保護テロリストが登場していた。
これも予言的だったと言えるだろうか。
トフラーが『パワーシフト』で「環境神権主義」への警句を述べるよりも前だったように思う。
外挿と想像力とで、大胆な未来予測を述べていた小松左京は、2011年から先の未来を楽観視していただろうか。
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