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2010/06/15

生命なきロボットへの感情移入

ダース・ベイダーが言う。
「阿部サダヲよ、なぜ私がお前のケータイなのだ。解せぬ!」

渡辺謙、木村カエラに続いて、『スター・ウォーズ』の「悪の権化」ダース・ベイダーがNTTドコモの携帯電話を演じている。
いや、演じているというのは変だけどね。

ドコモの意図としては、肌身はなさず持ち歩く携帯電話に愛着を持って欲しいというところだろうか。
しかし実際には、携帯電話は3年ほどで新しいものに買い換えることが多いのではないか。
買い換えの際、古い携帯電話は個人情報保護のために、販売店でパンチで穴をあけて廃棄される。
ダース・ベイダー携帯電話ならこんなふうに言うかもしれない(最期に良い人になるからね)。
「さらばだ。金やレアアース(貴土類金属)を有効活用してくれ」

まぁ、実際のところ、携帯電話に人格を求めることはできない。
人格が存在するためには「連続した記憶」が必要だが、携帯電話は自身の記憶を持つところまで進歩していない(記憶と人格については、いずれまた書く)。

さて、前世紀末、外惑星探査で華々しい成果を上げ、太陽系を後にしたボイジャー探査機はもちろん、2003年に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」に搭載されたコンピュータの能力も、現在の携帯電話の能力に及ばないだろう。
にも関わらず、なぜ、携帯電話は単なる機械だと思うのに、探査機の旅や帰還には心打たれてしまうのだろう。

人類の先駆けとして、はるか彼方へと赴き、か細い電波のビームに乗せて、消息を知らせてくる健気さゆえだろうか。
ボイジャーからの電波はとうに途絶えた。
「はやぶさ」は7年間の旅の果て、小惑星の表面物質という手みやげを届けて、自身は大気圏で燃え尽きた。

生命なきロボットに感情移入しちゃうのは、健気に働き続けて
「ぼくはちゃんと仕事ができたでしょうか? 期待通りの成果を上げられたでしょうか?」
と問われているように思うからだろうか。

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2010/06/14

携帯電話で青空文庫

iPad の発売の前後から、「今年こそ電子書籍元年」という報道をよく見る。
ソニーの電子ブック(データディスクマン)とかエキスパンドブックとか、十年ほど前の電子出版にかかわったことがあるので、今回の「元年」も本当かなぁ、という気がしないでもない。

電子書籍が今後どのように普及していくのかは、まぁ様子を見るとして、自分のこととして考えると、電子書籍にはそれなりの魅力がある。
物理的な本も好きなのだが、老眼が進んできて、小さい字の本は読むのが辛い。
また、本を置いておくには、かなりのスペースが必要だ。
ウチの2階の床は、本棚の重さで抜けるのではないかと不安だ。

そんなことから、雑誌や文庫本、新書やビジネス書、技術専門書などについては電子書籍のほうが良いのではないか、などと思うのだ。

しかし、Amazon の kindle はまだ日本語に対応していないし、iPad 向けの日本語書籍もまだまだこれからで、すぐに買って試してみよう、という気にはならない。
もちろん、iPad は電子書籍リーダーではなくパーソナルコンピュータだが、文字入力はやはり物理的なキーボードを使いたい。
だから今のところ、PC があるからいいや、と思ってしまうのだ。

とはいうものも、出版関係の仕事をしていることもあって、電子書籍についてはいろいろ経験したおかないとなぁ、と考えて気付いた。
そうだ、携帯電話があるじゃないか。

以前、ドコモのiアプリで芥川竜之介の『朱儒の言葉』を読んだことがある。
今回はiアプリを探すのが面倒なので、「いつでも携帯 青空文庫」の本を読むことにした。

コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの帰還』から「空き家の冒険」、モーリス・ルブランの『奇岩城』、中里介山の『大菩薩峠 甲源一刀流の巻』を読んだ。

シャーロック・ホームズやルパンは、小中学生のころ読んだ訳なので懐かしかったからだ。
『大菩薩峠』は、何度となく本当の大菩薩峠(東京・山梨県境の山)に登りながら、小説はまったく読んでいなかったので、いつか読もうと思っていたからだ。
なにしろ41巻だかの世界最長の小説で、しかも未完だというから、それだけで畏れをなして本を買う気にならなかったのだ。

……ということで、実際に1週間ほど、会社の昼休みを費やしたり、銀行の窓口の待ち時間を利用したりして試した結果は……。

→横書きでも、意外に違和感はない。普段、横書きの文章を読むのに慣れているからだろう。

→ルビは親字の後にカッコ付きで表示される。やはり、ルビは親字の上(縦書きなら右)に表示して欲しい。

→1画面に表示される文字数が少ないのでスクロールして読むことになるのだが、文字の途中で切れるのが良くない。画面の最下行の文字が上半分しか見えないとき、ページアップすると、画面の最上行の文字は下半分しか見えない。こういうときだけ、ページアップではなくスクロールして読むことになる。

→ページを戻しにくい。「あれ、この登場人物、十行くらい前で何て言ってたっけ」と思ったとき、前のページを読み込んで、該当個所を探すのが面倒である。

……という具合で、本を持ち歩かずにすみ、空いた時間にさっと読めるという点で、電子書籍は優れている。
いつでも持っている携帯電話というハードウェアは、ほかに何も持たなくて良い、という点では抜きんでている。
だが、インターフェースとしてはまだまだだ。

有料の書籍を読む気になるかと聞かれたら、ちょっとその気になれない、と答える。

そんなこんなで、先週末には本屋へ行って、上下巻計1350ページの文庫本、ダン・シモンズの『イリアム』を買ってしまったのだった。
上巻だけで厚さ3cmを超える本を持ち歩くのは面倒だが、物理的な紙とインクの良さは、やっぱり捨てがたいと思ってしまうのだから、やっぱりワシはアナログ人間なのだろうか。

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2010/06/08

モダンタイムスとカエル

残業しての帰り道、クルマを運転しながら、会社から退けるときも機械と付き合わなければならんのか、と思った。
会社ではほぼ一日中、PCやMacと向き合って、InDesign(レイアウトソフト)やIllustrator(図版作成ソフト)やPhotoshop(画像編集ソフト)を相手に微妙なマウス操作をしたり、MO(光磁気ディスク)やCD-Rにデータを書き込んだり、メールのやりとりをしたり。
人間と向き合っても、フォントをどうするとかデータの仕様をどうするとか、そんな話ばかりだ。

ふと、チャップリンの映画『モダンタイムス』を思い出す。
利便性を求めて、機械に使われる社会。

このところ、「一日中楽しめる、一生かかっても尽きない楽しさ」というようなiPadのCMを目にする。
たまには、機械に触れずにいたくなったりすると思うのだが。
……といいつつ、こんな文章をポメラで書いているのだが。

ウチに帰ると、こんが飛びついてきて、激しく顔をなめ回す。
すぐに着替えて散歩に出ると、近所の田圃ではカエルが大合唱。

ツチガエルやアカガエル、トノサマガエルなど、何種類かの声が混じり合う。
ちなみに、ウチは静岡東部なのでグアグア鳴いている大きめのカエルはトノサマガエルだが、箱根を越えるといないのだそうだ。
関東地方にいるのは、近縁のトウキョウダルマガエルである。
もっとも、並べてみても見分けられるか自信がないが。

いったいどういうつもりで出てくるのか、道ばたに何匹もカエルがいる(なぜか、こんはカエルには興味を示さない)。
さらにどういうつもりか、道を渡ろうとする。
そして運が悪いヤツは、クルマに轢かれて道路のシミとなる。
数億年前から連綿と続くカエルたちの血統が、モダンタイムス(現代)においては、機械に押しつぶされて終わることがあるのだ。

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2010/06/07

薫風の候、緑陰の木登り

忙しくしているうちに、風薫る五月は過ぎてしまった。
仕事は忙しいし、日曜日に自治会の用事があったりする上、町内会の会計部長(兼唯一の部員)なので平日にも信用金庫や農協やゆうちょ銀行へ行かなくてはならない。

そんなわけで、平日に有給休暇を取って新緑の愛鷹山に登る、なんていう野望は達成できなかった。

しょうがないので、用事のない土日は庭の手入れ。
昨日(日曜)は茂りすぎたカツラの枝を払った。
同じ方向に伸びた枝をバッサリ切るのである。

カツラは、自然状態では高さ20メートルにもなる。
ウチの小さな庭で20メートルの大木になってもらっては困るので、3メートル超くらいで止めている。
幹を止めると、小枝がいっぱい出るのだ。

その小枝が太くなり、洗車台を使っていても、高い枝を鋸で切るのは大変だ。
片手で握れるほどだった幹も両手サイズになったので、ふと、この太い枝には登れるのではないのか、と思った。
おそるおそる登ってみると、しっかりと体重を支えてくれるようである。

自宅の庭の木に登る。

なかなか気分は良かったが、高く登るのはやめておいた。
いきなり枝が裂けて落ちて怪我でもしたら、格好悪いからね。

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2010/06/06

ダイソンを買った

昨日、台所を掃除していたら、掃除機の前輪のキャスターが取れてしまった。
単にネジが緩んだりして外れたのではなく、前輪のキャスターの台座のプラスチックが割れたのだ。
こうなってしまうと、修理不能である。

過去の記事を調べてみたところ、2008年2月3日に「掃除機を買った」という記事があった。
ということは、わずか2年4ヶ月で壊れてしまったわけだ。

シャープのPower CYCLONE EC-AX1-P が脆弱だったのか、ウチの使い方が荒いのか……。

そこでコジマへ行き、小さくなったダイソンを買った。
ダイソン DC26、本体もホースもヘッドも軽くなったからだ。
ただし、やはり動作音は大きい。

長持ちしてくれれば良いが。

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2010/06/02

人工生命は核廃棄物の夢を見るか

人工生命を創り出すことに成功した、というニュースをみたが、完全な「人工」ではない。
http://www.asahi.com/health/news/TKY201005200555.html
マイコプラズマという細菌の1種のゲノムをまねてDNAを合成し、別種の細菌のDNAと入れ換えて、その別種の細菌の細胞質を使って自己増殖することを確認した、というものだ。
ゲノムのモデルとなった細菌がいるし、細胞質も既存の細菌のものだ。

この実験が画期的なのは、人工合成したDNAが、ゲノムとして働くことが確認できたことである。
ゲノムとは、生物を構成する遺伝情報のワンセットである。
人工的につなぎあわせたDNAが、遺伝情報、つまり生命の設計図として使えることがわかったわけだ。

じつは、ゲノムの中には「使っていないんじゃないか」と思われる部分がある。
ジャンクDNAとかナンセンスコドン(遺伝暗号)と呼ばれている。
では、そのような「不要と思われる」DNAを除いた、「必要十分」なDNAの最小セットを用意したら、それでも「生命」として機能するのだろうか?

ミニマムな生命の設計図を探ったり、細菌に効率的に物質合成させるにはDNAの長い鎖のどこに目的の遺伝子を挟み込んだらよいのか調べたり、ということが、人工合成したゲノムを使うとやりやすくなる。
「生命の本質とは何か」を探ること、「細菌に医薬品などを生産させる」こと、この基礎と応用の両極端にあるような課題に切り込む手段になるのだろう。

DNAを自動修復するようなしくみをもった細菌が作れれば、環境中に放出された放射性物質を効率的に回収することができるかも知れない。
なにしろ高速増殖炉もんじゅの運転を再開し、核燃料を、そして核廃棄物も、大量に生産する準備が進められているし……。
核燃料サイクルは、実現する目途が立っていないにもかかわらず、なぜか地球温暖化対策の一つと見なされている。
核燃料サイクルが実現したとしても、老朽化して廃炉となった原子炉などの廃棄物は必ず、大量に出る。
ウチの庭に埋めていいよ、という奇特な人が現れて地層処分が可能になったとしても、絶対に生物圏(バイオスフェア)に放射性物質が出てこないとは、誰も言えまい。

せめて、回収するのに人工細菌を使えないかなぁと考えたが、もちろん、人工生命ゆえの危険性もある。
なにしろ、変化すること(=進化すること)が生命の本質であって、それは人工の生命であっても同じことだ。

どんな物質を生産するかわからない細菌、どんな物質をえさにするのかわからない細菌、増殖のコントロールができない細菌が環境中で勝手に振る舞い始めたら、生態系に深刻な影響があるだろう。

ワシらになじみのある植物や動物が消え失せ、地球の表面が灰色や赤色の細菌のマットに覆われるような事態になったら、困るよねぇ。
しかも、そのマットは夜になると燐光を発するのだ。
数万年、数億年という長い長い時間、崩壊し続ける放射性物質が放つ光である。
「創造主」亡き後、人工生命の末裔が地球を征服した未来の光景は、荒涼としているが、意外に美しいかも知れない。
もちろん、この光景を美しいと「思う」者は誰もいないだろう。

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