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2008/07/28

『ハリー・ポッターと死の秘宝』を読んだ

「ハリー・ポッター」シリーズ第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』を読んだ。
完結編である。


「悪」との激しい戦いは終章で終結するが、その終章からエピローグまでの19年間にどんなことがあったのか、生き残った人たちはどうやって暮らしているのか気になるところではある。 まぁとにかく、これで物語は結末を迎えたことになる。


スネイプの物語


第7巻では、第1巻~第6巻までの間に残された「謎」が解明されたり、張り巡らされていた伏線が収束したりする。
そこで、「あれ? この話ってどの巻で語れていたっけ?」と記憶を辿ることも度々なので、もう一度最初から読み直す必要があるかもしれない。
ウチのカミさんは、全巻読み直して第7巻発売に備えるという用意周到ぶりだった。


中でも気になっていたのは、スネイプの立場と行動の理由だ。
スネイプは結局ヴォルデモートの手下だったのか、ダンブルドアのダブルスパイだったのか、という点についてはここには書かないが、第7巻ではスネイプの過去について1章を割いて語られている(第33章)。
ここのところは「この本は本当に子供向けか?」と思う部分だ。
いやぁ、泣けますぜ。


闘う若者たち


第5巻の『不死鳥の騎士団』のあたりから、ハリー以外の子供たちが、殺人者集団相手に闘う。
まぁ、そのあたりがこの物語においては魔法以上に「あり得ない」ハナシだと思うのだが、第7巻では学校挙げての全面戦争である。
あえて言えば、そういう設定が「子供向け」かも知れない。
子供たちが、自分たちも大人と互角に闘えるかも、という幻想を描くところが。


いや、現実に少年兵や少年ゲリラが存在するのだから、この現実というやつがじつはファンタジーなのではないか、と思えてしまう。
戦争が終わっても人々を傷つけ続ける地雷とかクラスター爆弾とか、宇宙兵器とか、使い道のない戦車とか、人間魚雷とか、まったく戦争ってやつはファンタジーだぜ。科学じゃねぇ。


それはさておき、成年に達した(といっても17歳の)ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人組は困難な旅を続ける。


そして第1巻ではドジで魔法もろくに使えなかったネビル・ロングボトムが目ざましい成長を見せる。
ハリーとロン、ハーマイオニーが不在のホグワーツでゲリラ戦を展開するところなど、『20世紀少年』でケンジやオッチョが不在の間、秘密基地を守る(レジスタンスを組織する)ヨシツネのようである。


魔法の起源


ファンタジーは SF ではないので、あれこれ科学的なツッコミを入れるとキリがない。
しかし、第7巻では魔法についての科学的……のような記述が見られる。


例えば、魔法によって水や火を出すことはできるが、食べ物を出すことはできない。
これについて、ロンはこう言っている(第29章、下巻283ページ)。



「うん、まぁ、食料は『ガンプの元素変容の法則』の五つの例外の一つだからな」



もちろん、これはハーマイオニーの知識の受け売りなのだが(上巻でハーマイオニーが腹ペコのロンに説明している。どこのページかは探してね。)。
ちなみに、あと四つの例外について知りたいところであるが、どこにも書かれていない。


さて、「魔法の杖」についてもいろいろと難しい理屈があるようだ。
そのあたりを読んでいて気付いたのは、杖が魔法使いの能力を増幅するなど、より強力な魔法を使えるようにしていることだ。
そして、杖の素材には霊験がありそうな木とか、不死鳥の羽根とかの魔法生物の一部が使われている。
ひょっとすると、もともと魔法使い(ヒト)の持っている能力は大したものではなく、魔法生物の持っている能力を借りているだけなのではないか?(マグル(非魔法族)と魔法使いの能力差が「大したものではない」と考えると、マグル生まれの魔法使いがいたり、先祖代々魔法使いの家系なのに魔法が使えない人がいたり、という状況も理解しやすい。芸術的なセンスとかスポーツの能力とか暗記力とかと似たようなものだからね。)


そう思ったのは、屋敷しもべ妖精が杖などの道具なしにテレポートできたり、ゴブリンが錆びない(刃こぼれもしない)剣を鍛造したりできるということだ。
それなのに、魔法使い(ヒト)は、屋敷しもべ妖精やゴブリンを差別している。


このあたりは、自らを「万物の霊長」と呼ぶヒト、他の人種や民族を低く見る先進国の人たちを暗に揶揄しているようにも思えた。
民族といえば、ヴォルデモートの支配下に置かれた魔法省がマグルの分離・弾圧に乗り出すあたりは、ナチス・ドイツによるユダヤ人弾圧が思い起こされる(ヒトラーと違い、ヴォルデモートは表舞台には立たないが)。


杖といえば、前々から思っていたのだが、wand をどうして「杖」と訳しているのだろう? 
映画を観るとわかるとおり、magic wand は「杖」というより「指揮棒」である。


もっとも、映画『ロード・オブ・ザ・リング』でガンダルフやサルマンが振るうのは、「指揮棒」ではなく「杖」である。
修験者の持つ「錫杖(しゃくじょう)」みたいなもんだろうか。


まぁ、長いひげを生やした魔法使いなら、杖を突いて歩いていても違和感がないが、若者が杖を突いていると絵にならないからね。

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2008/07/21

夏休み前半終了

毎日少しずつ庭の草取り(芝刈り)。
それから、録りためた映画を観たり。ちなみに、観たのは次の三本。
『ターミネーター2』『グレート・ビギン』『サイレント・ランニング』

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2008/07/18

『なぜ人はニセ科学を信じるのか』を読んだ

マイクル シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』では、退行催眠やアプダクション(宇宙人による連れ去り)など、よく知られたニセ科学も論じられているが、下巻ではとくに、創造的進化論とホロコースト否定論に多くのページを割いている。

翻訳のせいか、ちょいと読みづらいのが難点。

どちらも日本ではあまり話題にならないニセ科学である。
しかし、創造的進化論は休みの日に子連れでやってくる聖書の押し売り(ちょっと失礼な言い方ではあるが、迷惑な点では同じである。それに、子連れは良くないぞ。休みの日には、もっと遊んでやれよ。そのほうが子供のためだよ)からよく吹っかけられるし、ホロコースト否定論は南京大虐殺否定論に似ている気がする。

アメリカでは創造的進化論(最近ではID仮説として衣替え? キリスト教の神と言わずに「宇宙に存在する知的な存在」と言いかえただけらしい

)とは、公教育をめぐる裁判沙汰になっていて、断続平衡進化説のグールドあたりがしょっちゅう戦っていたようだ。
論点は、進化の中間段階の化石とか、そういった創造的進化論に都合の良い土俵に引きずり込まれがちだ。

懐疑論者のシャーマーは、真っ向から論争し、コチラが証拠を提出するより、アチラに証拠の提出を求めたほうが良いと言う。
そりゃそうだ。
新しい仮説を提示するなら、その立証責任は提示する側にある。
その証拠(というか論拠?)が、神とか超知性とかいう証明不能なものなら、それは科学ではない。
科学的な仮説とは名ばかりの、非科学的なファンタジーである。
したがって、同じ土俵で論じるのは無理ということになる。

やっぱり決め台詞は、『裁判官の爆笑お言葉集』に記されていた「それは、あなたの思い込みではないですか」になるかなぁ。
「まず自分を疑って、何度も確かめる」こと、そして「これっていい思い付きだと思うんだけど、間違ってないかなぁ」と他人に問うこと、これこそが科学なのだからね(したがって、「わしの言うことに間違いはない!」なんてぬかす人は、大学教授であれ医者であれ、科学者ではない。そういやこの台詞、旧厚生省のエイズ研究班の会合の録音テープで聞いたような気がするなぁ)。

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2008/07/16

教育委員会は必要か?

大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件。
なんとも「情けない」話である。

ワシは教員試験の受験経験がある。
というか、自力で一次試験、二次試験と合格して教員になったが「一身上の都合」で退職した経験がある。

このとき二次試験では、思想調査もどきの性格診断テストをやらされて「なんじゃこりゃあ」と思ったりした。
「私の信ずるものは……」なんていう書き出しに続けて思うところを書け、というテストである。
「私にとって最も腹立たしいのは……」といったようなものもあったね。

「私にとって最も腹立たしいのは、口では国家とか教育とか義務とか言いながら、甘い汁を吸う連中である。」
……というように書いた、かどうか覚えていないが、今なら書くかもね。

一度教職を辞してから数年後、そろそろ傷も癒えたかなと思って再度教員試験を受け、一次試験は合格したが、二次試験で落ちた。
やっぱり一度ドロップアウトしたので嫌われたのだろうか。
あるいは、「不登校などの不適応を起こした生徒への対応」を問われたとき、自分の経験から、「教師だけで何とかしようとせず、専門家のカウンセラーなどの協力が必要だ」と述べたせいか……(この考え方、20年前は異端だったのだよ)。

それはさておき、当時も「高校全入」を標榜したり「日の丸掲揚」を強要したりする教育委員会って何だろうと疑問に思ったことがたびたびある。
教育委員って、民主的プロセスによって選ばれた人たちじゃないしね。

教頭は校長にへいこら、校長は教育委員会にへいこら、教育委員会は文部省(当時)の上意下達機関、というように思えたりしたこともあったっけ。
悲しいことに、教育委員会と現場の板ばさみになって命を絶つ校長がいることを考えると、やっぱり制度が悪いのかもね。

いっそのこと教育委員会を解散して、教員採用試験も民間委託してみたらどうだろう?

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2008/07/07

人生は続く

不得手語」をリストアップしていて気付いた。
「自分」が主体でなく、「なんかしてもらう」的な言葉が嫌いなのだ、ワシは。

もちろん、人は一人で生きていけるものではないし、何でも自分の思い通りになるわけでもない。
他人とのかかわりの中で、自分とは何かを一生考え続けるのだろう。

だからと言って、「はい、アンタはこういう人なので、こうやって生きなさいね」なんてことを他人に言われたくはない。
宗教や占いの類が嫌いなのは、そのせいだね。

ついでに。
最近、ちょっとイヤな言葉が「エコ」だ。
長年「エコロジー」という言葉にも違和感を感じていたのだが、それが省略されて「エコ」になっちゃうと、違和感倍増である。

ちなみに、ワシは卒論を作物学/雑草学/植物生態学の領域で書いた。
大学時代には自然環境保全についてもずいぶん考えた。実地調査もした。
あんまりまじめにではないが、現在も生態学的な方法論を用いて調査したり考察したりしている。
つまり ecology については、そこそこ知っているつもりなのだが、それと「エコ」とはずいぶん違う気がするのだ。

英語の格言だかなんだかに、
Life goes on.
というものがある。
アルクの英辞郎によれば、
「(何が起ころうとも)人生は続く」
ということだが、この life を人生ではなく生命と読み替えれば、
「(何が起ころうとも)生命は存続しつづける」
となる。

ecology の視点からすると、ヒトは数千万種の生物の中の一種にすぎない。
ヒトが絶滅しても(絶滅したほうが?)、地球の生態系は(変化があるにせよ)維持されていくだろう。

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2008/07/04

大雨の朝、地球にやさしくない通勤

早朝、雨戸に叩きつける雨粒の音で目が覚めた。
雨粒でなく、あられか雹なのではないか、と思うほどの大きな音だ。
薄明るくなってきた屋外を窺うと、あられではないようだ。

雷鳴もとどろき、こんがおびえていた。

三島駅まで上のムスメを送るのに、通勤用の Kei (スズキの軽自動車)では心もとない気がしたので、ランドクルーザー プラドで出掛けた。
フォグランプを点灯してワイパーを最大速度で動かし、おそるおそる走った。
道は川になり、盛大に水をはねあげて進む。
対抗車線の右折レーンで待つタクシーに頭から(?)水をかぶせてしまった。
わざとではありません。すみません。
道路の低くなったところなど、ざばざば進んでいると、その名の通りクルーザーみたいである。

雨の散歩道のアスファルト舗装」にも書いたが、道を川に変えてしまうような舗装はなんとかならないだろうか。
その結果、道を流れた雨水はすべて川に注ぎ込み、川は簡単に「警戒水位」となる。
茶色の濁流となって川幅いっぱいに流れる黄瀬川を渡るとき、ちょっと恐怖を感じた。
あちこちの橋が、想定を超える交通量で疲弊しているという話も聞くからね。

それはさておき、新幹線は一時運転は見合わせたものの、どうにか運転再開した、というニュースを聞きながら、今度は下のムスメを学校まで送る。
小学生は自宅待機だが、高校生は暴風警報が出ない限り、登校するのだ。

通常のルートを辿って行くと、突然の通行止め。
道路が冠水して通れないようだ。
エンコして動けないクルマが数台。
周囲には油も浮いていた。

切り返して別のルートへ。
東海道線をくぐる主要なガード三つのうち一つが冠水して通行止め。
当然、ほかの二つにクルマが集中して渋滞する。
まぁ、雨に(ほとんど)濡れずに出勤できたのだから、あんまりブツクサ言うまい。

……結局、燃費の良くないクルマでノロノロ運転をするという、とっても「地球にやさしくない」通勤通学となってしまった。
エコだ、グリーンだ、二酸化炭素排出量削減だ、というなら、気象警報が出たら(どんな警報でも)学校も会社も休み、なんて具合にすればいいのにね。
「地球にやさしい」暮らしを目指すなら、地球が荒れているときに無理して平常の生活を保とうと思わないほうが良いのではないか?

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2008/07/03

雨の散歩道のアスファルト舗装

夕方、早く帰ってきて暗くなる前にこんの散歩。
雨の中、雨具を着て長靴を履いて歩く。
もちろん、ワシが、である。
こんはハダカで素足だ。

真っ暗になる前なので、散歩道にしているアスファルト舗装の上に、虫の死骸があるのがわかる。
今日は、オニヤンマ(だと思う)とコクワガタ♂(だと思う)の死骸を見た。
「だと思う」というのはパッとみてそう判断しただけで、きっちり同定していないからだ。

それはさておき、雨のアスファルト舗装の道を歩いていて思うのは、「雨水がもったいない」ということだ。
アスファルトの表面を雨水が流れ、側溝に流れ込んでいて、坂の下の暗渠の中では滝のような音がしている。
雨がただ単に「排水」されているだけで、何の役にも立っていないのだ。

散歩のルートが技能オリンピックの跡地であるだけに、残念だ。
どうせなら、日本の道路舗装の「技術」の一つである透水性舗装にしてあれば、こんなに雨が「排水」されることもないだろうに。

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2008/07/02

ある朝の光景

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2008/07/01

不得手語

ここでの不得手とは、下手糞という意味ではなく、苦手、好きでない、という意味である。
どうも、見たり聞いたりしたときにムカついてたり、落ち着かなくなったりする言葉があるのだ。

進化した○○

進化という言葉は、生物学的に正しく使わないと危険である。

何度も書くけど、とくに人間に対して使うと、ナチス・ドイツの同類になっちゃうからだ。

→「成長」「進歩」「改良」などと、正しく使うべし。

地球にやさしい

地球からすれば、人類は皮膚に棲んでいる寄生虫のようなものである。
寄生虫にやさしくしてもらいたいですか?

地球環境を保全するのは、地球のためではない。
二酸化炭素が増えようが酸素がなくなろうが、全球凍結しようが灼熱地獄になろうが、それも地球環境である。
というか、地球はかつてそういう環境だったのだ。それを、菌類や植物が、ワシらの過ごしやすい環境に変えたのだ。

→「人類の生存できる環境を維持する」とか言ったほうが良いのでは。

生かされている

宗教的な感じがイヤ。

山などでものすごく感動的な体験をしたことは何度もあるが、「生かされている」と思ったことはない。
毎度「生きてて良かった」と思うのである。

「生かされている」なんて言い方は、間違うと「生きることが許されているのだろうか」なんて無用な悩みにつながりそうな気もする。
歴史を見ると「生かされているのだから、正義のための聖戦に命を投げ出せ」なんてことを言う宗教ばっかりだから、宗教が嫌いなのである。

あ! そういえば、通勤途上で「生かされている」人たちをよく見かけるぞ。
傘さしてたり携帯電話使ったりしながら自転車に乗っている高校生や、道路の真ん中を自転車でふらふらと走るおじいさん、後ろも見ずに歩道から車道に飛び出してくる自転車のおばさん。
彼らは心優しく俊敏な自動車のドライバー達(ワシを含む)に「生かされている」のである。

癒される

「くれない族」が使いそうな言葉だな。

まぁ、好き好きだけど、騙されてお金を巻き上げられたり、心や身体に深い傷を負わないように気を付けてね。

自分探し

見つからなかったらどうするんだ。

冗談はさておき、若いときには旅やいろいろな仕事で経験を積んでおくべきである。
ただし、そこで「自分探し」をしようとしてはいけない(自分が見つからないと焦るやつが、カルトに引っかかるのだろうなぁ、きっと)。

「自分の生き方」や「自分がどういう人間なのか」なんて、そう簡単に見つかるものではないからだ。
その意味では、「人生そのものが自分探しの旅」なのである。
もちろん、見つからずに死んじゃうかも知れない(ふと思うのは、ニュートンや平賀源内や寺田寅彦がコンピュータに出会っていたら、いったい何を成し遂げていただろう、といったことだ。あるいは、モーツァルトやベートーベンがシンセサイザーに出会っていたら? ぼくらも、出会っていたら人生が大きく変わるようなものに出会うことなく、死んでいくのかも知れないのだ)。
だがまぁ、なるべく、死ぬときに満足して死ねるように、小さな幸せを大事にして、日々を過ごしたいと思うのである。

……と言いつつ、半世紀生きてきて、「あのとき、こっちじゃなくてあっちを選択していたら、どうなっていただろう」と思うことがないわけではない。
いまここでこうしてキーボードを叩いていずに、地球上の別の場所を彷徨っているかも知れないし、もっと優雅に暮らしているかも知れないし、死んじゃっているかも知れない。
まぁ、運命なんてものはなく、すべて結果論なのだなぁ、と思うのだ。

だからまぁ、他所で自分を探そうなどとせず、経験として蓄え、それを自分を磨く材料とすべきなのだ。

思い出作り

「友達作り」に通じる居心地悪さを感じる。
「作る」もんじゃなくて、気付かないうちに「できる」もんだろ(浦沢直樹の『21世紀少年』に似たような台詞があったね )。

「いい思い出ができました」は、「いい経験をさせてもらった」というように言い換えたほうが、言われた人の気持ちが良いと思うのだが。

元気をもらった

……もらうもんじゃないと思うんだよね。
もらわれてしまったほう(あげちゃったほう)は、元気が足りなくなったりしないのだろうか。
だって、元気一定の法則があるから。

……というのは冗談だが、元気とか意欲とかはもらうんもんじゃなくて、自分の内側から湧き上がるものだと思うのだ。
それを外からもらおうとしないほうがいいと思うなぁ。

信じなさい

「不得手語」をリストアップしていて気付いた。
「自分」が主体でなく、「なんかしてもらう」「なんかしてやる」的な言葉が嫌いなのだ、ワシは。

もちろん、人は一人で生きていけるものではないし、何でも自分の思い通りになるわけでもない。
他人とのかかわりの中で、自分とは何かを一生考え続けるのだろう。

だからと言って、「はい、アンタはこういう人なので、こうやって生きなさいね」なんてことを他人に言われたくはない。
宗教や占いの類が嫌いなのは、そのせいだね。
「信じなさい」と強要されるのはまっぴらである(よく読めばわかると思うが、ワシは「信じる」ことを否定しない。それこそ、個人の自由である。しかし、「自分が信じていることをアンタも信じなさい」という権利は、誰にもない)。

と言われています

原典を明確に示さずに、健康器具の効果などを宣伝する際に用いられる言葉である。
「テレビや雑誌で話題の」という薬屋の店頭で見かけるポップ(広告)の同類。

「トルマリンから発生するマイナスイオンは健康に良いと言われています」というように用いられる。

ちなみにマイナスイオンについては以前、元祖【科学的逍遙】に書いたとおり、根拠がない。
滝の周辺の空気中に負電荷が多いという論文がもとになってはいるが、その元の論文には、生物体への影響については何も書かれていない。

インチキっぽい商品を売りたい人が、あやふやな根拠を示そうとするとき、「と言われています」などと誤魔化すのだ。

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