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2007/07/24

葉序とフィボナッチ数

(以下の内容は、科学的逍遙の「研究室/フィボナッチ数と植物」にまとめ直してある。)

フィボナッチ数を次のように定義する(括弧の中は、ホントは下付きにしたかった)。

F(n+2)=Fn+F(n+1) ただし n≧1

これは、n≧2の場合には、次のように変形できる。

F(n+1)=F(n-1)+Fn

さらに、n≧3の場合には、次のように変形できる。

Fn=F(n-2)+F(n-1)

さて、葉序は 2/5、3/8、5/13のようになっているから、一般化すれば次のように表される。

F(n-2)/Fn

一方、黄金比は次のように表される。

F(n+1)/Fn

葉序と黄金比の和を求めてみよう。

F(n-2)/Fn + F(n+1)/Fn = (F(n-2) + F(n+1))/Fn

ここで、
F(n+1)=F(n-1)+Fn
だから、

(F(n-2) + F(n+1))/Fn = (F(n-2) + F(n-1) + Fn)/Fn

さらに、
Fn=F(n-2)+F(n-1)
だから、

(F(n-2) + F(n-1) + Fn)/Fn = (Fn + Fn)/Fn

したがって、葉序と黄金比の合計は 2 である。

つまり、
究極の葉序=2-黄金比
となる。

そこで、
究極の開度〔°〕=360×(2-黄金比)
となり、この開度で茎に葉が付いているとき、茎を真上から見ると、葉がまったく重ならないはずである。

ま、実際には「究極の開度」でない植物も、茎がよじれたり、葉柄を曲げたりして、なるべく多くの葉に日光が当たるように調節しちゃっているのだけどね。
生物体の構造や機能は数学的基盤に載っているけど、それをぐっちゃりとないがしろにすることがよくあるのではないだろうか。

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2007/07/23

葉序と黄金率

葉序とフィボナッチ数との関係を調べていて、葉の開度(ある葉と、次の葉の間の角度)には「究極の値」があることが判った。

究極の開度〔°〕=360×(2-PHI)
ここで、PHIは黄金率(黄金比)である。
この開度の場合、葉が上下に重なることはない。

ワシはこれについて、真に驚くべき証明を発見したが、
昼休みが終わってしまうので書くことができない。

(最近読んだ『フェルマーの最終定理』に影響されているなぁ……)

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2007/07/20

地震と自衛隊と原発と選挙

16日(月)、祝日だったが出社してシステム仕様書を書いていると、画面が揺れたように感じた。
おや? めまいかな? と思ったのだが、ディスプレイの脇に置いたコーヒーの液面も揺れている。

「地震だ。震度2」
「まためまいを起こしたかと思ったよ」
「震源はどこだろう?」
そんなことを近くの席の人と話してから、Webでニュース速報を見てびっくりした。

中越地方で最大震度6強の地震。

震災に遭われた方にはお見舞い申し上げます。
私は手伝いに行けませんが、こういうときこそ、源泉徴収でごっそり持って行かれている税金が、有効に、思いやりをもって使われることを願っています。

さて、こういうときに出動する自衛隊には好感を持てる。
(「敵」であっても)人を殺すより、人を助けるほうが良いよねぇ。
いっそ、国際貢献も可能な災害救助隊として技術を磨き、戦闘機や戦車は廃棄しちゃえばいいのに。
まぁ、海外では治安の悪いところもあるから、自衛のための小火器くらいは必要かも知れないが(訓練は必要だが、使わないに越したことはない)。

で、倒壊した家屋などで救助に当たる自衛隊員を見ていて思ったこと。
戦争じゃないんだから、迷彩服を着ている必要はないだろうに?
むしろ、二次災害で埋まっちゃったり、土石流に巻き込まれたりしたとき、発見されやすいように、レスキューと同じようにエマージェンジー・オレンジの服を着ていたほうが良い。

ぜひ、迷彩服から「目立つ服」に衣替えして、ついでに災害救助隊に衣替えしたほうがいいよ。
納税者として、そう思うよ。

税金といえば、国策として建設・維持されている原発は、またもや地震で稼動停止だ。
科学的に考えて原子力は「安全な」電力供給源と思えないし、発電設備と電力消費地が離れていることや、電力会社が大規模発電にこだわることに疑問を感じている。
今回の地震と原発に関しては、活断層を過小評価していたのではないかという疑惑があるそうだ。

まさか、とは思うが……最初に「原発建設ありき」で、活断層の調査結果をわざと過小評価したのではあるまいね。
決まり文句を使えば、「御用学者による捏造」というやつである。

どうも、大規模な利権のからむ建設事業については、(決まり文句で悪いけど)腹黒い政治屋とか天下り先のことばかり考えている官僚とか金儲けに魂を売った企業人とかが関係しているのではないか、とか思ってしまうのだ。
ワシの思い過ごしなら、良いんだけどね。

そんなこんなで、今度の選挙で誰に投票するかで悩んでいる。
「多数決は民主的である」なんてことを公言している連中には絶対に票を入れたくない。
もちろん、小学校で習うとおり、民主主義で重要なのは「少数意見の尊重」であり、「じゅうぶんな話し合いによる合意」である。

イヤほんと、参議院も小選挙区制になって、衆議院との差がなくなって存在意義がわかんなくなっちゃったよねぇ。
それに加えて、まったく悪い制度だと思うのが「比例代表制」だ。
ワシは徒党を組むのが嫌いだし、考え方の違う人を無理矢理ひとまとめにしようとするのは間違っていると思うので、政党政治というものに懐疑的だ。
だから、比例代表でどこに投票するか、非常に悩むのだ。
前回の選挙では、考え方がいちばん近いと思ったグループに投票したのだが、「得票数はそこそこだったのに、落選」という結果だった。
与党の何とか言う青年(最初は議員パスに率直に驚いたりしてたのに、古株の議員に叱られて与党の党員らしくなっちゃったヤツ)よりも得票数が多かったのになぁ。

「本当に無所属」の人を応援したい場合、どうすりゃいいんだ? この国では。
まず投票制度を、「コイツは絶対にイヤ」というほうにシフトしてはどうだろう?

このアイデア、実際に検討されているらしい。
2007年6月12日の朝日新聞朝刊記事に、フランス大統領選挙の折の実験が紹介されていた。
「非常によい」から「失格」までの6段階で評価する、という方法で、現実の投票結果とは違う結果となった。
現実の投票では4位だったルペンは、実験では最下位だった。
「右翼のルペンだけは絶対にイヤ」と思う人が多かった結果だろう。

「当選させたい人」を選ぶ選挙では、民意が反映されないのではないか、と考えているのは、ワシだけではないのだねぇ。

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2007/07/13

頭痛と幻覚

『こころのサイエンス』02号を読んだ」に、片頭痛の前駆症状である「閃輝暗点」が見えても寝込むような頭痛にならない、と書いた。

……そのインクも乾かぬうちに(比喩的な表現だよ、もちろん)、昨日は大変な頭痛に襲われて、1日寝込んでしまった。
朝からなんとなく側頭部が痛かったのだが、まぁ大したことはなかった。
朝はそれよりも、尻の不調のために休みをもらい、午後に薬でも買いに行こうかと思っていたのだ。

ところが、午前中横になって休んでいるうちに、だんだん酷くなってきた。
夕方には、屋根の上のスズメの鳴き声までが頭痛に響くようになり、それだけでなく、「音が見える」ようになってしまった。
閃輝暗点と同じような、黒い点のまわりに輝く縁のついて図形が、音とともに視野をよぎるのである。

スズメが鳴くと、目を閉じているのに三角形が視野の左隅に出現し、「びょん」と大きくなる。
同時にズキリと左側頭部が痛む。

ムスメが階下のピアノでモーツァルトを弾くと、虹色の水玉が視野の左から右へと軌跡を描く。
そして絨毯爆撃のような頭痛(ベトナム戦争時、低空で爆撃する攻撃機から撮った映像があったが、あんな感じでドカドカドカッ……)。

久石譲の曲にはそれほどの衝撃がなかった。
モーツァルトの破壊力は相当なものである。
よくモーツァルトは「癒し」だと言われるが、片頭痛の発作中には「拷問」である。

今日は幸いにして、大して痛まない。
昨日ゆっくり休んだせいか、イブプロフェンが効いているのか……。

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2007/07/11

『こころのサイエンス』02号を読んだ

日経サイエンスの2007年7月号臨時増刊『こころのサイエンス』02号を読んだ。

(「科学的逍遙」参照)

「片頭痛で苦しまないために」

じつはワシも片頭痛持ちである。
何もできないほどの頭の痛みがあったり、数日間寝込んだりするわけではないが、ときおりものすごい前駆症状が現れるのだ。
「閃輝暗点」と呼ばれる幻覚が現れ、視野の半分以上をおおってしまうので、本を読んだりPCを使ったり出来なくなる(閃輝暗点がどのようなものか知りたい人は、芥川竜之介の「歯車」を読むと良い)。
もっとも、数十分で治まるので、車の運転でもしない限り、さほど問題となるわけではないが。

片頭痛の原因については、脳の血管が収縮(または膨張)するから、と言われてきたが、1990年代以降、神経組織の問題だと判ってきたという。
脳幹のニューロンが異常に興奮して大量のニューロペプチドを放出する。

これが近くの血管に炎症を引き起こし、三叉神経(顔面と頭部の感覚神経)の痛み受容器を刺激、その信号が脳幹に届く。脳幹にある痛覚中枢が過敏になるか負担がかかりすぎることによって自発的に発火し始め、片頭痛の痛みが生じる。(24ページ)

ニューロペプチドの放出を抑える薬(トリプタン)が結合する先は、例によってセロトニン受容体である。
抗うつ剤が片頭痛にも効くわけだ。

「二人で一緒に――協調性の不思議」

ミラーニューロンの存在からも判るとおり、ヒトは他者の行動からその意図を読む能力を持っている。
それは、他者とコミュニケーションをとり協調行動を取ることは、社会の中で生きて行くために必要だからなのだろう。

他人のことを考慮に入れるという性癖は、人類の進化の歴史に根ざしているのかもしれない。他人と協調行動がとれる人には、有利な点が多くあったろう。初期の協調行動は、二人以上の人が同時に同じ行動をとるもの、たとえば洞窟の入り口を守るために重い石をみんなで動かすといったものだろう。 こうした協調行動をこなすため、認知と行動を無意識のうちに結びつけるシステムが生まれたことが、私たちをはじめとする複数の研究で示されている。多くの場合、協力は単なる社会的義務の遂行ではない。むしろ、人間は協力せずにはいられない生き物なのだ。(44ページ)

もちろん、ヒトだけが協調行動をとる動物ではない。
イヌに至っては、野生のオオカミだったころの「同種の群れの仲間で協調行動をとる」ところから進化して、「他種であるヒトとともに協調行動をとる」ことができる。
イヌはヒトの行動を模倣することによって協調行動をとるわけではないので、同列に論じることはできないが。

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2007/07/05

夏の大三角形を見た

梅雨の晴れ間。 「五月晴れ」はもともと、梅雨の晴れ間のことだったらしいが、新暦になって5月が梅雨の時期ではなくなったため、誤って「鯉のぼりの気持ちよく泳ぐ空」のようなイメージになってしまったらしい。

昼間は会社の建物の中に缶詰になっていたのでよく判らないが、帰宅時にひさびさに夕焼け雲を見た。 そして、夜にこんの散歩に出ると、頭上に夏の大三角形。

こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。 一緒に散歩に出たムスメが、「天の川、見えるかなぁ」と言っていたが、ウチの近辺ではどんなに晴れていても、無理だろう。 地上の明かりが明るすぎるからだ。

そう告げると、ムスメは「山、行きたいなぁ」と言った。

Wiki で日誌って、適切なのだろうか

……日誌って、記事を蓄積していく Wiki という形式にマッチしているのだろうか、と最近考えている。 そのため、日誌の記事の更新、というか追加が滞りがちなのだ。

ページの一覧を見て、「日誌/yyyy-mm-dd」というページタイトルがズラ~ッと並んでいるのも何だか味気ない。

日誌はやめて、何度も読み直し練り直すような記事だけにしようかなぁ。 でも、「こんなことがあった」という記録も欲しい気がするしねぇ。 まぁ、もうちょっと悩もう。

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『生物と無生物のあいだ』を読んでいる

『生物と無生物のあいだ』を読んでいる。読みかけなのである(読み終えた後の感想は「科学的逍遙」を参照)。
昨日の昼休みから読み始めて、夜、自宅で半分ほど読んだ。
今日中には読み終わるだろう。
決して「軽い」本ではないが、読みやすい。
著者の文章がうまいからだろう。

以下、読んでいて思ったことのメモ。

アンサング・ヒーローへの著者のまなざしは、温かいなぁ。
対して、「死んだ鳥」や脚光を浴びたがる人たちには、冷笑的だ。

生命は「流れ」である。
このことは、ワシも「百の元素になって」の中に書いた。
あ、そうだ。
「百の元素になって」に、人体を「川」に例えたが、「滝」のほうが判りやすいかもね。
「入れ物なき形あるもの」だし。
今度修正しよう。

体を構成する物質が入れ替わっていく「ターンオーバー」について、Webで検索してみたが、ゴミばかり引っかかる。
やたらと、表皮細胞の入れ替わる速度の話……ようするに「お肌の美容」の宣伝ばかりがヒットするのだ。
そこで、「ターンオーバー 窒素 同位体」で検索すると、やっとまともな情報が拾えるようになった。
なんだかなぁ。

著者の見解によると、ウイルスは生物ではない。
ワシも高校でウイルスの構造と生活史について習って以来、ずっと悩んでいる。
ウイルスは、自己複製という、生物ならではの特徴を持つ。
しかし、物質の出入り、つまり代謝とは無縁だ。

そこで考えたのだが、ウイルスは単体では生物ではないが、宿主に侵入して初めて生物となるのではないか?
ウイルスは生物ではなく、「ウイルス-宿主複合体」が(宿主とは別の)生物なのである。
細胞外で見つかるウイルスは、「生物ではなくなった状態」と言えるのではなかろうか。
ウイルスはその生活史の中に、「生物である時期」と「生物でない時期」を持つ生命体なのだ。

なお、本書中に誤りを発見したので指摘しておく。
138ページに、ブラウン運動する粒子の例として「水面に浮かぶ花粉」が挙げられているが、花粉は巨大すぎるので(花粉は細胞であるから、それこそ、「生物はなぜこんなに巨大なのか」と問われるほうである)、ブラウン運動を観察することはできない。
ブラウン運動するのは、水を吸った花粉が割れて、中から出てくる微粒子である。
ミトコンドリアとか色素顆粒とかかな?
いや、ミトコンドリアでも大きすぎるかな?
またちょっと調べてみよう。

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2007/07/03

GTDトリガーリスト

ToDo管理の方法として、GTDの評価が高い。
……ということで、やらなきゃならないことを「全部」リストアップするときの補助として使う「トリガーリスト」を考えてみた。
参考にしたのは、ITmeaiaのBiz.ID「GTDに役立つトリガーリスト

以下、科学的逍遙に移植するためにPukiWiki記法で書いておく。

* GTDトリガーリスト

** 仕事

- 現在参加しているプロジェクトは?
- 現在の業務目標は?
- 習得すべき能力目標は?
- 机の上に置き去りのものは?
- 机の中で整理すべきものは?
- 本棚などで整理すべきものは?
- 依頼されていることは?
- 職場環境で改善すべきことは?
- 連絡(メール・電話)すべきことは?
- 書いていない書類は?
- 出席すべき会議は?
- 調査すべき事項は?

** プライベート

- 家の中で気になることは必要はないか?
- 家の外(庭など)で気になることは必要はないか?
- 個人的な目標は?
- 心配事はないか?
- 約束事があるか?
- 買うべきものはあるか?
- 欲しいものはあるか?
- 次の休みの予定は?
- 出かけて行きたいところは?
- 見たい映画は?
- 読みたい本は?

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『植物の生存戦略』を読んだ

編者が「植物の軸と情報」特定領域研究班であるから、発生学・形態学・生理学的な見地から「植物って、こんな生き方をしているのです」という解説である。

ワシはどうしても「生存戦略」というと、生態学的な競争とか、進化論的な変化(というか、進化そのものだね)のほうを考えてしまう。
つまり「なんでそうするの(したの)?」という問いだが、本書ではどちらかというと、もっと根本的な、「どうしてこうなるの?」という問いについての答えである。
いや、「答え」というと語弊がある。

科学では、一つの「答え」が新たな多くの「問い」を生む。
だから、「答え」というより、「いまはここまで判ったよ」という「報告」である。

さて、その「問い」は、というと、次の10題である。

1章 植物と動物 → 植物と動物の生き方、体のつくりはどこが違うのか?
2章 葉の形を決めるもの → なぜいろいろな形の葉があるのか?
3章 花を咲かせる仕組み → 「花咲爺さん物質」はあるのか?
4章 遺伝子の働きによる花の形づくり → さまざまな花のつくりを決める仕組みがあるのか?
5章 受精のメカニズムをとらえた! → 花粉管はどうやって胚珠に辿り着くのか?
6章 根 → 根はどうして下に伸びるのか?
7章 根における共生のいとなみ → なぜ根粒ができるのか?
8章 4億年の歴史をもつ維管束 → 植物の「水道管」はどうやってできるのか?
9章 成長をつづけるためのしたたかな戦略 → テッペンの芽を摘むと脇の芽が伸びるのはなぜか?
10章 「第2の緑の革命」に向けて → ミラクルライス「IR8」を生み出した遺伝子とは?

エボ・デボ

ワシが生態学的な視点で植物を見るのは、生態学的な手法がアマチュアには最適だからだ(アマチュアには金も時間も道具もない。あるのは好奇心だけ?)。
それに対して、本書の著者たちのようなプロの研究者は、特殊な顕微鏡を使ったり、微量の物質を分離・精製したり、細胞を培養したり、遺伝子に印を付けたりできる。

現代の最先端の発生学的・生理学的な研究には、それなりの実験設備が必須なのだ。
その最たるものがエボ・デボだろう。

(前略)このような、生物の体の形の違いがどのような進化を経てできてきたのかという問題は、昔から多くの生物学者を魅了してきました。それを明らかにするために、生物種の間で形態や発生を比較する研究が古くから進められてきたのは、ご承知の通りです。

それに関しては近年、新たな研究手法が脚光を浴びています。生物の形態形成や発生の仕組みを遺伝子のレベルで比較し、それによって進化の仕組みを明らかにしようとする研究です。これは「Evolutionary Developmental Biology(進化発生学)」、略して「エボ・デボ」と呼ばれる研究分野です。(49ページ)

双子葉類でも単子葉類でもない被子植物

分子レベルの研究によって、マクロな生物の形態や生態の「秘密」が明らかになってきた。
中学の理科では、陸上の植物を次のように分類する。

コケ植物
シダ植物
種子植物 裸子植物
被子植物 双子葉類
単子葉類

つまり、花が咲いて種子で殖える植物(種子植物)は裸子植物(種子がむき出し)と被子植物(種子は果実の中にある)に分かれ、被子植物は単子葉類と双子葉類に分かれる、と中学では習う。
そして、次のように習ったはずだ。

  • 単子葉類は、子葉が1枚、葉脈が平行脈、根はひげ根、花びらはないか、あるいは枚数が3の倍数であることが多い。イネ、アヤメ、ユリ、ランなど。
  • 双子葉類は、子葉が2枚、葉脈は網状脈、根は主根と側根、花びらの枚数は4または5の倍数であることが多い。サクラ、エンドウ、アブラナ、ヒマワリなど。

こうやって習うと、なんとなく、見慣れたキレイな花を咲かせる双子葉類が「植物の進化の頂点」であるかのように思ってしまう。
ところが、高校・大学と植物の勉強を深め、観察技術や経験を積んで行くと、疑問が芽生えてくるのだ。

「木よりも草のほうが、ニッチな環境に適応している。……ということは、草という形態しかない単子葉類のほうが、木という形態の多い双子葉類より進化しているのではないか?」

「モクレンの花は、他の双子葉類の花と比べると違いがありすぎる。双子葉類というグループに入れてしまってよいのだろうか?」

だが、こうした疑問に答えるには、光学顕微鏡レベルの観察手段や博物学的な形態・生態観察では不足である。
DNA やタンパク質などの分子レベルの解析によって、植物の類縁関係(というより、過去のどの段階で異なる系統に枝分かれしてきたか、という分岐関係)が見直されつつある。

本書の75ページの系統樹を見たときには驚いた。
イネやキクの仲間が現れるまでの道のりに、なんと分かれ道が多いことか。
もっとも、中学の教科書が書き換えられるのは、まだまだ先のことだろう。

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