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2006/04/29

庭にある危機

ウッドデッキでくつろぐ「こん」
休日(ワシの休日である、もちろん)の こん は、庭に出ている時間が長い。
上の写真は、さんざん庭で暴れまわった挙句、ウッドデッキでくつろいでいるところだ。
くつろいでいるのだが、じつは庭の端が気になってしかたがない。
アシナガバチが飛び回っているのだ。

こんがよく潜り込むローズマリーの枝先に、小さな巣を作っていた。
そのままにしておくと危険なので、申し訳ないが、見張り番のハチともどもスコップではたき落とした。

アシナガバチの巣と卵
はたき落とした巣を拾い上げて調べてみたところ、中に卵が産み付けられていた。
ほうっておいて大きな巣になったら見張り番も増えて取り除くのが困難になるので、小さいうちに見つけられてよかった。
しかしまだ、ユスラウメのあたりをうろつくアシナガバチがいるので、別のところに巣を作らないかどうか、用心が必要だ。

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庭の「進化」なんて「無理」

庭の片隅
庭の片隅に植えたヒメシャラの下の、スミレは花を終えてしまったが、タンポポが大きく育った。
コデマリも花盛りだ。
カモミールが植えた覚えのないところから出てきた。
引っ越してきた年に植えたワイルドストロベリーは跡形もない。
芝が勢力範囲を広げた。
去年勢力を広げていたローズゼラニウムは、一株になってしまった。
ローズマリーは木蔭(?)を作るようになった。

庭の様相は、毎年変化する。
植生(生えている植物の種類やその広がり)がしだいに変化することを「遷移」という。
庭の場合、ワシが多少手を加えているので、「人為的な遷移」と言ったほうがよいかな?
昨年秋からは、こんも手(足? 口?)を加えているので、「犬為的な遷移」でもある。

……なんてことを考えていて、馬鹿なマスコミやコピーライターは「進化する庭!」とか書いたりするかもなぁ、と思った瞬間、ハタと気付いた。
言葉を知らないから、「変化」というありふれた言葉の代わりに(誤って)「進化」という言葉を使ってしまうのではないだろうか。
なんだ、「進化」という言葉を誤用する輩は、単なる「ボキャ貧」じゃん(ボキャ貧って死語かな? ボキャブラリーが貧困、ってコト)。
コトバで商売しているはずの連中が、何でも「ビミョー」で済ませる中高生並みの言語感覚で良いのかね?

それはさておき、言葉は生き物なので、言葉の意味や使い方が変わっていくのは仕方がないことだとは思う。
そう思って見ると、ウチの女子高校生の言葉遣いも面白い。
「できない」「存在しない」「ありえない」「そうあって欲しくない」のすべてを「無理」という。

「こんを散歩に連れてって、大きいの拾ってきてよ」
「無理!」
「ポテトチップス、棚から持ってきてくれない?」
「無理無理」
「庭が進化するってどうよ?」
「無理無理無理」
「こんが太ったらどうする?」
「無理無理無理……」

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2006/04/26

『リングワールドの玉座』を読んだ

ラリー・ニーヴン著、小隅黎訳『リングワールドの玉座』(ハヤカワ文庫SF)を読んだ。
ラリー・ニーヴンの「ノウンスペース(既知空域)シリーズ」を読み始めたのは大学生のときだから、もう20年にわたって読み続けてきたことになる。
最初に「ノウンスペース・シリーズ」について知ったのは、『SFマガジン』に連載していた、スタジオぬえの「スターシップ・ライブラリー」に描かれていた「ライイング・バスタード(嘘つき野郎)号」のイラストと解説記事を読んだときだ。
そのイラストがめちゃくちゃにカッコ良かったのである。

真ん中でくびれた紡錘状のゼネラル・プロダクツ製2号船殻。
生命維持機構とハイパードライブだけがその透明な船殻に収められ、武器を兼ねた推進機関やセンサーは外部の三角翼に装置されている。
ライイング・バスター号が目指したのは、G0(ゼロ)型の恒星をめぐる人工のリング。
その巨大な居住可能な世界を、誰が、何の目的で作ったのか……。
地球人とパペッティア人、クジン人の混成チームが調査に赴くが、軌道速度で接近したライイング・バスタード号は撃ち落され、リングワールドの表面にハードランディングする……。

なんじゃぁ、このSFは? ハードSFなのに、ガジェットやベムがてんこもりではないか!
……というわけで、買おうと思った『リングワールド』はハードカバーだったので、学生には買えなかった。
どうやらパペッティア人・クジン人などの異星人やクォンタムIIハイパードライブなどの予備知識が必要そうだったので、文庫本の『太陽系辺境空域』を買って読んだ。
いやぁ、何とも壮大なスペースオペラ的展開に、巻き込まれ型の主人公たちやトリッキーな難問解決策、マーフィーの法則(作中では「ペテン師の法則」)、そしてユニークな惑星環境や異星の生態圏がシニカルなユーモアをもって描かれ、とても面白かった。
作物学―植物生態学の卒業論文作成の合間に、次々と文庫本を買って読んだ。

ハードカバーの『リングワールド』を買って読んだのは社会人になってから。
それから続編の『リングワールドふたたび』まで、だいぶ間があったように思う。
そして『リングワールドの玉座』だが、またまたえらく間があいている。
読み終わった瞬間、これは次に続くなぁ、と思ったら『リングワールドの子供たち』が出るらしい。
……三部作じゃないじゃん。

はっきり言って、最初に『中性子星』や『リングワールド』を読んだときほどの衝撃はなかった。
ニーヴンの描く世界に慣れてしまった(というか、馴染んでしまった?)のだろうか……。
それとも、20年の間に、現実が追いついてきてしまったのだろうか?
常温超伝導やナノテクノロジーなど「リングワールド・シリーズ」に描かれる超技術まで、あと一歩のところまで来ている(かも知れない)ものもあるし、コンピュータやロボットは追い抜いてしまいそうだ。
もちろん、ハイパードライブやテレポーテーション装置のように、現在では魔法に等しいものもあるが……。

一昨日観たNHKプレミアム10 「立花隆が探る サイボーグの衝撃」 の「衝撃」のほうが大きかったからかも知れない。
「リングワールド・シリーズ」には、生物学的に変容する「ヒト」は描かれているが、サイボーグは登場しないからなぁ。
おそらく、人類が恒星間宇宙に出て行くより前に、サイボーグ化という「節目」があるだろう。
ヒトと機械、脳とコンピュータの融合については、別途ゆっくり考えてみたい。

参考:
第69回 押井守監督、川人光男所長らとサイボーグ革命最前線を語る - nikkeibp.jp - 立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
SCI(サイ) - サイエンスの、最先端を.サイボーグ技術が人類を変える

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2006/04/22

なぜイヌは寝る前に回るのか?

カーペットの上で眠るこんなぜイヌは寝る前に回るのだろう?
寝る前に、その場でぐるぐると何回か回ってから、座り込んで丸くなる。
そして後ろ足にあごを載せて眠ってしまう。

なぜ回るのか、その理由はよく判らない。
……誰か、研究しているのだろうか?
尖ったものなど危険なものがないか確認するとか、草を踏みしだいて寝やすくするとか、まぁそんなことではないかと思っている。

昔見たディズニーの短編アニメーションで、イヌのプルートゥが自分の寝床の上で、まぶたを垂らした眠そうな目をしてぐるぐる回るシーンがあった。
どんなイヌでも同じ行動をとるのなら、これは「本能行動」だ。
遺伝子に刻まれ、誰に教わることもなくとる行動。
何かしら生存に有利だから、こういう行動をとるのだろうが、回るイヌのほうが回らないイヌより生存に有利、なんだろうか、本当に?

こんが見せる本能行動の数々を見るにつけ、イヌとヒトの隔たりはどれくらいなのだろう、と思う。
もちろん、ヒトにも(限られているが)本能行動はあるし、イヌも知的な行動をとる。
こんは、その小さな頭でいったい何を考えているのだろう?

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2006/04/20

サツキクルメツツジ咲く

サツキ咲く

会社の近所の公園にサツキが咲いていた。
……サツキだよね?
ワシは栽培植物には弱いのだ。

ちなみに、園芸品種のサツキの原種は、山に自生している。
沢沿いの岩場などに生え、ミツバツツジ類が終わったころに咲くので、野生種ならワシにも判るのだ。

蛇足だが、ツツジの仲間は種類が多く、「えっ、これもツツジ」なんてものもある。
高山のコケモモもツツジ科で、地を這うような背の低さだが、立派な「低木」だ。
ブルーベリーだってツツジ科なのである。

【訂正】2006.05.15加筆
この写真の花は、サツキではなくクルメツツジであった。
同じ公園で撮ったサツキの写真にリンクを張っておく。

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2006/04/17

今月の言葉

ベッドで眠るこん我が家の「今月の言葉」は、「うざこにも程がある」である。
……これだけでは訳がわからんよね。
「うざこ」というのは、言わずと知れた「こん」の最近の呼び名である。
命名者は上のムスメ。
ウチでは「うざい」などの汚い言葉を使うと白い眼で見られるので、何かしら工夫をするのだ。

最近、こんは聞分けがない。
イヤだと言っても腕に噛みつく。
気に入らないドッグフードは食べない。
昨日は喜んで食べていても、だ。
そのくせ、ささみジャーキーなどのおやつは欲しがる。
そんなこんを見ていて、上のムスメが「こんはうざこだら~」と言ったのである。
ちなみに、「だら」は静岡東部の方言である。

休日で家族が家に居る日はさらに「うざこ」に拍車がかかる。
外に出たいとキューキュー言っていたのに、庭に出すと5秒で部屋に戻りたがる。
それを何度も繰り返す。
そんなこんなで、ムスメが怒って言ったのが、今月の言葉である。

今朝もこんを庭に出していたら、ウチの前の通学路を通る小学生が吹いていたリコーダーの音にびびり、家に入りたがってキューキュー啼いた。
まったくもって、うざこにも程がある。

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2006/04/15

商品は「進化」する

昨日の記事「携帯電話の進化と退化について考える」が(例によって会社で昼休みに書いたせいで)ちょいと舌足らずなので、補足しておこう。

「携帯電話は(生物ではないが)進化している、と言えるのかも知れない」
と書いたが、これは
「進化した携帯電話登場!」
という宣伝文句での「進化」の使い方が正しい、という意味ではない。

「進化」という言葉を、「進歩」「高機能化」「多機能化」という意味で使っていたら、やっぱり間違いなのだ。
ワシが言いたかったのは、「市場」という環境で生き残ることができた携帯電話は「進化した」と言えるだろう、ということだ。
だから、一般的に「退化」とみなされる「単機能化」も、「進化」なのだ。

そういう意味では、「市場」において淘汰圧にさらされる商品は、必然的に「進化」する。
じつはこれはワシのオリジナルのアイデアではなく、国立遺伝学研究所の五條堀先生から聞いた話や、ドーキンスの『利己的な遺伝子』で述べられている「ミーム(意伝子)」について思ったことに基づいている。

もちろん、商品はメーカーの意図どおりに「進化」するのではない。
市場に受け入れられたものだけが生き残るのだ。
そこで、商品は環境(市場)に合わせて様々に「分化」する。
多様な携帯電話や自動車を見ると、そのことが判る。
自動車など、イヌ並みに多種多様な品種に分化している。
速さに優れたもの、大きさに優れたもの、小ささに優れたもの、燃費に優れたもの、生産コストに優れたもの……。
それぞれ、ニッチ(生態的地位)に合うように進化したのだ、とは、言ってもよいだろう。
……なかには、メーカーの意図とは異なり、「高性能なのに絶滅した種」や「原始的形態なのに生き残った種」なんてのもありそうだ。
……進化とは、そういうものなのだ。

ね、「進化」の本当の意味を知っていたら、「宣伝文句」には使えないことが判るよね。

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2006/04/14

携帯電話の進化と退化について考える

最近頻繁に目にし耳にする「進化」という言葉、生物学的に正確に使われているほうが少ないように思う。
一般には「進歩する」「高機能化する」というように使われているようだ。
しかし生物学的には、生物が環境に適応することで「変化」してきたこと、変化していくことを「進化」という。
生物学的な「進化」には、「進歩」や「高機能」などの肯定的なニュアンスは一切ない。

例えば、一般的に用いられる「進化」の著しい例として、携帯電話が挙げられる。
もはや本来の「電話」の機能だけでなく、メール、Web閲覧、写真撮影、動画撮影、音楽再生、そしてデジタル放送の受信と、多機能化・高機能化している。

だが、本来の意味での「進化」と言えるかというと、いささか疑わしい。
環境に適応している、と言えるのだろうか?

ということで、ちょっと考えてみたのだが、携帯電話は(生物ではないが)進化している、と言えるのかも知れない。
例えば、カシオの「G'sOne TYPE-R」は「防水・防塵・耐衝撃」という新たな環境への適応を図ったものだ。
また、「ツーカーS」は高齢者の利用、通話専用という環境に特化したものだ。

「ツーカーS」は言わば「退化した携帯電話」だが、ちゃんと生き残っている。
「退化」というのは「進化」の対立概念ではなく、「進化」の一つの側面(というか、変化の一部)なのである。
ほら、アナタのシッポも盲腸も、退化しているじゃない。

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2006/04/13

菜種梅雨じゃないけど

アブラナの花

天気図を見ると停滞前線もないので菜種梅雨ではないのだろうが、雨の日が多い。
慣れないうちはつらく感じた夜の散歩も、慣れてくると面倒くさいだけだが、不便なことに変わりはない。

玄関には常に雨具が吊り下げられていて、まるで山小屋のようだ。
こんが元気を無くすのでフードを取ると、頭がすごく濡れるので、乾かすのも大変だし濡れた犬の匂いがする(当たり前だが)。
便を拾うのに使っている「おサンポくん」の水溶性の紙袋も、いざ拾おうとするときに、雨に濡れた手に触れて破れる。

それでも、春の夜の散歩は何となく楽しい。
問題は、こんの気分が乗らないと散歩にならないことだ。
どうしてこんなに、よその人が怖いのだろうねぇ。

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2006/04/10

『プリオン説はほんとうか?』を読んだ

福岡伸一『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス)を読んだ。
プリオン説とは、BSE(いわゆる狂牛病)やヒトのヤコブ病の病原体が、異常型プリオンタンパク質であるとする説である。
日本のBSE対策も、このプリオン説にのっとって行なわれている。
つまり、異常型プリオンタンパク質が多く含まれる脳や脊髄などを「危険部位」として避ける、という手段がとられている。
ところが本書では、そのプリオン説に疑義を投げかけている。
これまでのプリオン研究の結果は、必ずしも異常なタンパク質が病原体であることを示していないのではないか、というのである。
そして、もしも病原体がウイルスであったなら、日本のBSE対策は無意味ということになる。

ノーベル賞を受賞した学説が、誤りかも知れない……。
一見とんでもないことのようだが、科学的には、あっても当然のことだ。
科学とは、自然界で見られるさまざまな現象について仮説を提示し、それを証明する……あるいは仮説を放棄することなのだ。
先日読んだ『99.9%は仮説』の132ページにも書かれていた、カール・ポパーによる科学の定義、「科学は常に反証できるものである」そのものである。
プリオン説が科学であるならば、反証可能でなくてはならない。
タンパク質が病原体なのではなく、ウイルスが病原体だという証拠が揃ったとき、プリオン説は「正しくなかった仮説」となるわけだが、社会的影響はものすごく大きいよねぇ。

発表当初から画期的で魅力的で、思わずプリオンを題材に短編SF書いちゃおうかと思っていたが、しかしまぁ、実のところ、状況証拠しかなかったのかぁ。
ノーベル賞を受賞したプルシナーが、勇み足で誤認逮捕した刑事に見えてくるなぁ。
もちろん、誤認逮捕かどうかは、ウイルスが見つかっていない現在、まだ判らない。
科学は、第一級のミステリーでもあるのだねぇ。
……と思ってブルーバックスの表紙を見直したら、副題が「タンパク質病原体説をめぐるミステリー」だった。

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2006/04/08

タラノメを食べた

庭のスミレ低気圧が通過して、一時的に激しい風雨。
これで散ってしまうかと思った近所のサクラは、まだ何とかもっているようだ。
庭のタンポポもスミレも花をつけた。

庭のタラノキの芽が食べごろになったので、折り取ってテンプラにして食べた。
カキの若い芽も、枝ごと切り取って、テンプラにした。
この時期だけの楽しみである。

もちろんこれだけでは、おかずとしては足りないので、釜揚げサクラエビのかき揚げも一緒に食べた。
ちょっとした贅沢である。
贅沢と言えば、会社の同僚にもらったノビルの醤油漬けも一緒に食べた。
これでおいしい酒を飲みたかったのだが……会社のWWWサーバの動作をウチからも監視しているので、晩酌はできないのだった。

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2006/04/06

ツバメ初見

タンポポとサクラの花びら
朝、通勤途上のクルマの前をツバメが横切った(沼津市にて)。
二、三日前から声を聞いたように思っていたが、姿を見たのは今日が初めてだ。
昼休みに散歩に出たら、サクラの花びらが風に舞い、散り落ちた芝生にタンポポが咲いていた。

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2006/04/05

『コラプシウム』を読んだ

雨が降ると草木が勢いづく。
タラノキは、その芽を食べるにはもうちょっとなので、テンプラは週末までお預け。
ついでに、カキの新緑やミツバやギョウジャニンニクもテンプラにすると良いかもと思ったが、ミツバとギョウジャニンニクは、こんの用足し場所に近いので、ちとためらう。

さて、先週末にウィル・マッカーシイの『コラプシウム』(ハヤカワ文庫SF)を読んだ。
表紙のイラストが萌えキャラなので、ウチのムスメどもに「オタクっぽーい」と言われてしまったが、中身はハードSF+スペースオペラだ。
表紙に萌えキャラとして描かれているのは、脇役の一人で、十歳そこそこのソル女王国(太陽系)捜査局長。
本当は(?)中年女性なのだが、事故死したときに最新の人体・人格パターンがバックアップされていなかったので、子供の頃の人体と人格を再生し、そこに故人の捜査メモ(随時記録されていた思考パターン)をダウンロードしたのだそうだ。

このような、人体・人格の再生や転送(「どこでもドア」みたいなテレポーテーション装置「ファクシミリ」が出てくる)ができる時代に起こる、ブラックホールを用いた超高速通信装置がらみの事件を、それらの装置の発明者の天才重力工学者が解決する、という話だ。
もちろん、タイトルの「コラプシウム」は重力による縮退と元素を組み合わせた造語だ。
その他、どんな物質でもエミュレートできる「ウェルストーン」とか、とにかくたくさんのガジェットが出てくる。
あまりの用語の氾濫に、たびたび巻末の用語集や技術資料を参照しないと、話について行けなくなる。
時代設定といい、ガジェットの数々といい、ラリー・ニーブンの「ノウンスペース」シリーズを思い浮かべたが、主人公が重力工学の専門家であることからすると、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドリュー航宙記』とか『プロテウスの啓示』と似ている気がした。

それにしても気になるのは、「ファックス」することでコピーを作ったり、そのコピーが別々の行動をとった後で、もう一度「ファックス」して再統合したり、というあたり。
人体や人格を情報として保存する、という話は、アーサー・C・クラークの『都市と星』やらグレッグ・ベアの『永劫』やら、かなり以前からあるアイデアだ。
情報として保存できれば、転送も再生も自由自在……というのはいいのだけれど、経験や記憶の統合ってできるのだろうか?
考えてみれば、ワシらの体を構成している原子は日々入れ替わっているので、人格のパターンが移植できるものなら、「コピー」は「オリジナル」と何ら変わりがない。
しかし、コピーとして別の環境で生活を始めたら、人格のパターンはオリジナルとは段々違って行くのではないか?
昨年のワシと今年のワシだって、同じ季節に同じものを見て、感じることが違うのだから。
ヒトは、一貫した記憶を持つから、「自分」という認識ができるのだという。
とちゅうで記憶が枝分かれしちゃったら、再統合したとき、多重人格になっちゃうのではないだろうか?
……まぁ、誰でも多かれ少なかれ多重人格なのだから、問題ないだろうという考え方もある(例えば、夢の記憶は、別人格の記憶かも知れない)。
でも、数百人もコピーを作っちゃったら、再統合しないほうがよいだろうなぁ。

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